預言者の系譜
9  エリシャ(3)
信仰の目を見開いて

U列王記 2:7−14
  ロマ書  10:31−39
T 神さまが働いてくださる時に

 悲しい事件が続きます。もうたくさんなのに、こんなにも次々災害や事件が続くのは、神さまの前で私たち現代人は、罪の升目を満たそうと、まだいくらか残っている平和や繁栄や豊かな心を、自分たちの手で壊そうとしているのでしょうか。

 そんなことを考えながら、預言者エリシャの続きを何回も読み返しました。ここはエリヤからエリシャに預言者のバトンタッチが行われるところですが、この記事の中に、現代の私たちも含め、大切なものを見失ってしまった者たちへの、チャレンジが込められていると思うのです。7節からです。

 「ふたりがヨルダン川のほとりに立ったとき」と始まります。エリコから来て、ヨルダン川が死海に流れ込む河口に近いところ、エリコ市内に<バプテスマのヨハネの碑>がありましたが、そこから東に直線で10qほど先に、ヨハネが人々にバプテスマを授けていたと言われるところがあります。エリヤたちが着いたのは、その近くではなかったかと想像します。流れが強く、その前に立ち止まってエリヤは、「自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それでふたりはかわいた土の上を渡った」(8)とあります。ちょうどこの辺り、昔、イスラエルがカナンに侵入しようとして、契約の箱を担いだ祭司たちがこの川に足を入れた途端、川の水が上流でせき止められ、渇いた土が現われて10万の兵士が川を渡ることが出来ました。(ヨシュア記3章) エリヤの行動は、その故事にならっているのでしょうか。そこに神さまが働きがあると、弟子エリシャに見せたかったのでしょう。


U 信仰によってのみ

 彼らはヨルダン川を向こう岸へ渡りました。「渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。『私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。』するとエリシャは『では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。』と言った。エリヤは言った。『あなたはむつかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。』」(9−10) 前にも触れましたが、<エリヤの霊の二つの分け前>とは、申命記に「嫌われている妻の子を長子として認め、二倍の分け前を与えなければならない」(21:17)とある長子の権利です。エリシャは既にここが恩師との別れの地になると予想していて、それでもなお、エリヤから話し出すのを待っています。それは彼の、預言者としての守備範囲を暗示する会話であると感じますが、彼はその生涯を、エリヤの仕事を引き継ぐことだけに捧げるです。

 <2倍の分け前を>から、エリシャの信仰を汲み取ってみたいと思います。
 彼がエリヤと出会ったT列王記19章で、12頭の牛を使い、若いながら手慣れた賢い農作業をしていたと感心しましたが、そこから、彼が一般のイスラエル人以上の教育を受けていたことが感じられます。教育とは旧約聖書教育のことですが、ここに見られる彼の聖書知識は、それ以上、ギルガルでエリヤから受けた教育の成果でしょう。ここで長子の権利を持ち出すことで、彼はエリヤの後継者となることを自覚し、今まで以上の訓練の必要を訴えたのでしょう。「してください」ではなく、「なりますように」と言っています。<むつかしい注文>とエリヤが言った通り、それは神さまのお決めになることとわきまえた上で、彼は、エリヤを通して神さまにそれを要求しているのです。それが彼の信仰でした。そしてエリヤもまた、その要求が神さまへのものであり、それが彼の信仰であると理解しました。だから、「もし、私が取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない」と言います。エリヤが取り去られる瞬間は、まさに神さまの領域であり、そしてその領域は、信仰によってしか見ることのできないものでした。その瞬間を、エリシャが信仰の眼を見開いて見つめることが出来るようにと、それはエリシャへの最後の訓練であると同時に、エリヤの神さまへの願いだったのです。


V 信仰の目を見開いて

 そして、いよいよエリヤ最後の時がやって来ます。「こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。エリシャはこれを見て、『わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。』と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。そこで、彼は自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた」(11−12) 火の戦車と火の馬がどのようなものであるか、それらがここでどのような役割を持つのか、誰も想像し、断ずることは出来ませんが、彼がエリヤから引き継いだ、不信の民イスラエルに神さまのことばを語るという戦いは、決して安穏ではないことを予想させます。着ていた着物を引き裂いたエリシャの行為は、エリヤを失った悲しみでもあり、これまでの自分との決別でもあったと推測するのです。

 その様子を、対岸から50人の預言者たちが見ていました。彼らはエリシャの決意を見て、エリシャの行動を注意深く記録しています。15節を見ますと、その様子は、彼らが見ていたようにではなく、戻ったエリシャを見て、神さまの霊が彼の上に留まっていると分かったという書き方です。それは、川の向こう側で起こったエリヤとエリシャの出来事が、神さまの領域であったと、その神聖さを浮き立たせるためのように感じられます。恐れつつ、彼らはこの出来事を慎重に記録したのでしょう。「エリヤの身から落ちた外套」と13−14節に二回も記されていますが、それはたつまきのために落ちたのではなく、エリヤがそれをエリシャのために残したのでしょう。彼はその外套を拾い上げ、それを手にヨルダン川に引き返しました。「彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、『エリヤの神、主はどこにおられるのですか。』と言い、彼が再び水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った」(14)とあります。

 エリシャがエリヤの外套で水を打ち、ヨルダン川の水が両側に分かれた出来事は、少し前にエリヤと渡った時の様子をそっくり再現しています。神さまが<二倍の分け前>をお与えになったのでしょう。しっかりと目を開いて信仰に立ち、見つめるべきお方から目を離すことがなかったからです。エリシャが行なった奇跡が重要なのではない、彼が神さまを見つめたことに注目したいのです。そしてそれは、今、私たちにとって何より大切なものではないでしょうか。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ロマ8:31)と、パウロは言っています。混乱も、醜い事件も、未曾有の災害すら、神さまに目を向ける私たちを恐れさせることは出来ないと知って頂きたいのです。