預言者の系譜
8  エリシャ(2)
まず聞くことを

U列王記 2:1−7
  ロマ   10:13−17
T しばらくの訓練を経て

 後継者エリシャの登場を、T列王記19章から見てきました。エリヤとエリシャの出会いですが、言葉も交わさないうちから、もうエリシャへの訓練が始まっています。そしてその訓練は、現代の私たちにも必要なものでしょう。

 畑で農作業をしているエリシャのそばを、エリヤが通り過ぎようとします。それは、真夜中のガリラヤ湖で逆風のため漕ぎ悩んでいた弟子たちの舟のそばを、イエスさまが海の上を歩いて通り過ぎようとされた出来事によく似ていると申しました。これは、間もなく福音を伝える者として一人立ちしなければならない弟子たちに、いつ、どこでもイエスさまが彼らのそばにおられることを覚えるよう、その信仰確立の訓練のように思われるのです。現代という忙しない時代、信じたいのにいつもイエスさまはどこか遠く、近くにはおられないと感じてしまう私たち、でも、イエスさまは私たちのそばを通り過ぎてしまわれるお方ではありません。そう見えるのは、私たちがイエスさまを認めず、イエスさまの声を聞こうとしていないからでしょう。マタイはここを「通り過ぎようとされた」とは記さず、かえってペテロに「海の上を歩いて、わたしのところに来なさい」と呼びかけられたと加えています。イエスさまは私たちの主であり、たとえ私たちがどのような苦境にあっても、私たちを見つめ、励まし、そばにいて支え続けてくださるお方です。そのような信仰告白を続けていくことが出来るよう、エリシャや弟子たちと同じように、私たちもまた同じ訓練を受けているのです。ヘブル書にこうあります。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」(12:7)

 エリシャの2回目ですが、T列王記19章から4〜5年経っていると思われるのに、エリヤもエリシャも姿を隠したまま、どこにも登場していません。きっと、エリシャの預言者としての訓練が続いていたのでしょう。そして、その訓練が終わったのでしょうか、アハブが死に、その子アハズヤが王に即位した後、彼らの名前が再び登場してきます。


U 神さまとともに生きることを

 エリヤのところでもこの箇所を取り上げましたが、今回はエリシャを中心にいくつか考えたいと思います。「主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った」(1)とあります。ギルガルはサマリヤの中央部の山中で、エリヤが指導する預言者訓練所があったようです。エリシャは100名にも及ぶ預言者集団の一番弟子だったようで、エリヤはその弟子を最後の訓練に連れ出します。2節から6節まで、エリヤとエリシャの会話、エリシャと預言者たちの会話が同じような形で繰り返されています。

 まずエリヤとエリシャの会話ですが、「エリヤはエリシャに、『ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから。』と言ったが、エリシャは言った。『主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。』こうして、彼らはベテルに下って行った」(2)この会話は、4節ではベテルがエリコに、6節ではヨルダンになっているだけですが、微妙な違いもあり、このような会話が二人の間で何回か繰り返されたのでしょう。考えてみたいのですが、何故エリヤはエリシャに「ここにとどまっていなさい。主が私を〇〇に遣わされたから」と言ったのでしょうか。エリシャを連れていくことを拒んでいるようですが、それは何故でしょう。エリシャを召し出されたのは神さまご自身であり、だからエリヤはエリシャを厳しく訓練してきました。しかし、これは私の想像ですが、ともに暮らしていくうちに、彼らには深い愛情が育ち、今、エリシャが一人残されようとしている。預言者集団がエリヤに仕えたように、今度はエリシャに仕えるだろう。しかし、預言者の孤独を徹底的に味わってきたエリヤでした。アハブやイゼベルに敵対視され、イスラエルのどこにも居場所がないとシナイ山まで逃げていったこともあります。愛弟子に、そんな苦労を負わせたくない、そんなエリヤの思いをここに感じます。

 何度も岐路に立たされ、しかしエリシャは断固エリヤを離れることを拒否します。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません」エリシャはエリヤからも神さまからも離れて生きることを拒み、ついにエリヤはエリシャを神さまの手に委ね、彼を昇天の地ヨルダンまで連れていきます。


V まず聞くことを

 もう一つ、エリシャと預言者との会話からです。1節ですが、<エリヤがたつまきに乗って天に上って行った>とあり、これは目撃証言です。恐らくこの記録はエリシャのものではなく、途中からついて来た預言者たちの証言と思われます。「預言者のともがらのうち50人が遠く離れて立っていた」(7)と、エリヤたちがヨルダン川を渡って行くのを眺めていた彼らにも、竜巻がエリヤをそっと空の彼方に連れて行く様子が見えたでしょう。彼らは、ギルガルのエリヤ指導下の預言者集団ではなく、ベテル(3)やエリコ(5)にもあった預言者集団の預言者たちだったようです。

 エリヤとエリシャがベテルに行くと、「すると、ベテルの預言者のともがらがエリシャのところに出て来て、彼に言った。『きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。』エリシャは、『私も知っているが、黙っていてください。』と答えた」(3) 5節のエリコでも同じ会話があります。数年前、狂気じみたイゼベルに多くの預言者が殺され、生き残った預言者たちも集団を解散して各地に身をひそめていましたが、アハブの死後、再び集まって、預言者としての活動を始めています。そんな預言者集団は方々にあり、ギルガルのエリヤは良く知られていたようです。恐らく、アハブやイゼベル、またイゼベルがフェニキヤから連れて来たバアルの預言者たちと対決した様子が広く伝えられていて、その日、エリヤが天に上げられることも知っていたのです。エリヤが自分たちの町にやって来たと出て来るのですが、もしかしたらエリヤが彼らを訪ねたのかも知れません。ここで彼らは後継者エリシャが預言者としてどれくらい実力があるかを図りかねていたようで、「きょう、主があなたの主人を取り上げられるのを、あなたは知っていますか」と尋ね、その辺りに彼らの気持ちが表れているようです。それはエリシャも知っていましたが、エリヤが何も触れないうちに騒ぎ立てられることを嫌い、エリヤから言い出されるのをじっと待っているエリシャの姿が浮かんできます。

 この記事は、エリシャが、ギルガルの預言者集団だけでなく、イスラエル全域に渡ってエリヤの後継者であると証言するためのものだったのでしょう。ベテルやエリコの預言者たちは、そんなエリシャの資質を確かめました。黙さなければならない時に黙した、それは、神さまに聞くことを大切にする信仰者の姿勢でした。イエスさまを囲みながらじっとお話しを聞いた弟子たちのように、私たちもその姿勢を大切にしたいと思います。