預言者の系譜
75  イザヤ書・第二部(24・最終回)
主への礼拝を

イザヤ書 66:17−24
Uコリント 5:17
T 狂乱の世界で

 イザヤの最終回です。「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように……」(66:22)とあります。この最終章も65章と同じく神さまの新しい創造(恐らく終末を意識しながら)を語っているのでしょう。ところが、この最終章では、奇妙なことに「新しい天と新しい地」の記事を包み込むかのように前後の17節と24節に神さまの裁きが語られています。しかも、その裁きをもってこの書を閉じています。如何にも不自然であるとして、現代の聖書学者たちは17節を独立句とし、ヘブル語聖書(マソラ本文)は24節の後に「もう一度23節を読むように」と小さな句を加えているのですが、果たして、イザヤの意図はどこにあるのでしょうか。その辺りのことも含めて、この最終章から「新しい天と新しい地」のメッセージを聞いていきたいと願います。

 17節から見ていきましょう。「おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる」とあります。「豚の肉や忌むべき物やねずみを食らう者」というのは異邦人のことで、園とは恐らく彼らが農耕祭儀を執り行っている聖所のようです。66章の前半には「人を撃ち殺す者。犬をくびり殺す者……」(3)とあり、これは、モロクとかダゴンなどカナン土着の宗教儀礼の様子なのですが、17節にもカナン宗教が浮き彫りにされているものがみられます。ところが、その3節には、「牛をほふる者は……。羊をいけにえにする者は……」と律法に規定された儀礼を行う者たち・イスラエルのことが重ねられているのです。ここには異邦人というよりも、イスラエルへの裁きが語られていると聞かなければなりません。カナン宗教は土地への豊穣信仰ですが、それはオルギア(神々の前で男女の乱交が行われ、巫女たちは娼婦といった性的狂乱)を伴い、イスラエルでも神殿を舞台にそんな不品行が行われていたようです。イスラエルはそんな文化に憧れ、その宗教に絶えずなびいていたという歴史を持っていました。「身を聖別し、身をきよめて園に行き」そんな不品行に打ち興じていた同胞たちの狂乱ぶりを悲しみ怒る預言者の声が聞こえてくるではありませんか。それなのに、彼らは神殿こそが自分たちと神さまとを繋ぐ唯一最高の聖所であるとしているのです(1)。そこでこう言われます。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」(2)と。


U 心砕かれた者たちが

 「砕かれる」ということばに注目したいと思います。4節に「(神さまが)喜ばない事を彼らが選んだからだ」とありますが、それは、選民であると思い上がったイスラエルへの警告ですが、彼らの不信仰に対峙させているのが「砕かれた心」なのです。詩篇に「私に、楽しみと喜びを聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が喜ぶことでしょう」(51:8)とありますが、これは聖書に流れる一貫した生き方と言えます。きっとイザヤは、神さまに心砕かれた者だけが、神さまの新しい天と新しい地を継ぐことが出来ると言っているのでしょう。そんな者たちが「シオンの子ら」(66:8・残りの民)なのでしょう。彼らは「神さまの新しい天と地の創造」を待ちわびつつ終末の舞台を彩っていきます。

 そして、その残りの者たちは世界中から集められます。「わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに(もはや、イスラエルがイスラエルであるというだけの理由で選ばれることはない)、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る」(18・新共同訳) 集めるお方はもちろん神さまですが、神さまはそのために「人」を選んで遣わします。「残りの民」が「集められ」「遣わされる」この図式は何回も繰り返されますが、それは、集められた人たちの中から遣わされる人たちが起こされていくからなのでしょう。「わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、ブル、ルデ、メシェク、ロシュ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう」(19) 「タルシシュ、ブル、ルデ……」は当時の地中海世界全域をほぼ網羅する地名ですが、現代風に言いますと、遣わされる「伝道者たち」は世界中を地の果てまでくまなく歩き回り、福音を伝えるということでしょう。よみがえりのイエスさまが弟子たちに、「(あなたがたは)エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)と言われたことが重なってきます。イザヤは神さまに遣わされた者でした。その預言者の系譜をイエスさまの弟子たちが引き継いでいます。そして、現代の私たちもまた、その系譜を引き継ぐ者として召し出されたと聞いていかなければなりません。


V 主への礼拝を

 「わたしは彼らの中にしるしを置く」とありました。これまでに預言者は何回も「インマヌエル」や「主のしもべ」という名で救い主のことを語ってきましたが、それはイエスさまを指し示していると聞いていいでしょう。この「しるし」もイエスさまのことと思われます。

 しかし、預言者は今、新しい天と地のことを語っているのではないでしょうか。ところが、「わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし、レビ人とする」とある21節などを見ますと、「遣わされる人」も「集められる人」も、初代の弟子たちから現代の私たちまで続いている教会の時代のことが言われているのではないかと思われてなりません。「祭司」も「レビ人」も神さまに選ばれて神殿に仕えるようになった者たちでした。現代ですと、それは牧師、宣教師、教師、長老、執事といった人たちのことでしょう。パウロも言っています。「こうしてキリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師としてお立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためなのです」(エペソ4:11-12)

 恐らく、この新しい天地は教会の時代と重なっています。まだ終末に向けて未完成なのかも知れませんが、神さまはイエスさまを介して教会の時代という新しい世界をお造りになっている最中ではと聞こえてくるのです。神さまの創造する新しい天と新しい地ということで、黙示録に描かれるような金銀宝石で飾られたきらきらと輝く天国の都市のような世界、そんな世界を必ずしもイメージしなくともいいでしょう。ヨハネ自身ですら夢を語りながら現実を見据えているという声もあるのです。イエスさまによる救いは、イザヤが夢にまで見た新しい出来事でした。ところが私たちにとって、もう2000年もの昔から伝えられてきた福音ですので、「新しい」とは感じられないのかも知れません。しかし、確かに私たちは新しくされたのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました」(Uコリント5:17)

 「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」(22-23) 主への礼拝が生き生きと新しく、喜びと感謝に溢れているでしょうか。毎日を信仰者ではない人たちに囲まれて悩み苦しみながら。ですから預言者は「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる」(24)と神さまの裁きを書き加えました。しかし、そのような多くの罪に囲まれながらも、神さまの新しい創造の業は私たちの中に着々と積み重ねられているのです。主を礼拝するということは、決して、お気軽な楽しいことばかりではありません。むしろ、長い歴史を見ますと、「いのちを賭して信仰を守り通した」場合のほうがずっと多かったのです。そんな先輩の信仰を私たちも引き継いでいこうではありませんか。イエスさまの十字架の救いは日々に新しいのですから。