預言者の系譜
74  イザヤ書・第二部(23)
新しい天と地が

イザヤ書 65:1−25
黙示録  21:1−5
T 祈りへの応答は

 前回見た63:15〜64:12は、預言者イザヤの苦悩に満ちた祈りでした。「主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください」(64:9)と彼は祈ります。その原因が自分たちにあってのことですが、今、神さまの目はイスラエルにではなく、異邦人に向けられています。預言者は、そんな神さまの目を感じながら、その目がもう一度イスラエルに向けられることを熱望しました。今朝のテキストは65:1-25ですが、その祈りへの主の答えが語られます。

 「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った」(1) ここに言われる「神さまに問わなかった者たち」「捜さなかった者たち」「名を呼び求めなかった国民」というのは、異邦人(選民たるユダヤ人以外)と呼ばれる世界中の全国民を指しているようです。神さまの目がイスラエルに向いてくださるようにというイザヤの祈りに、「わたしの目はもう異邦人に向いているのだ」と、神さまの答えは冷水を浴びせるようなものでした。それは、「わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。この民はいつもわたしに逆らって、わたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、……」(2-5)と言われる、その通りのイスラエルだったからでしょう。「反逆の民」とは、まさにイスラエルのことでした。人間的な言い方をしますと、神さまは諫めても諫めても変わらないイスラエルに愛想をつかしてしまわれたのです。それだけにその怒りは大きく、ご自分の使者として召し出したイザヤにその怒りをぶつけます。「見よ。これはわたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する」と。ですからイスラエルを「彼ら」と三人称で言われるのですが、それが突如「あなたがた」(7)と二人称に変わります。これだけ裏切られて、「見捨てた」と決心した筈ですが、そのイスラエルは依然として「わが選びの民である」という神さまの消えてはいない熱い思いが伝わってくるようです。


U ほかの名で

 その熱い思いが溢れ出たのでしょう。神さまはイザヤに、「わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。わたしはヤコブから子孫を、ユダからわたしの山々を所有する者を生まれさせよう。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む」(8-9)と、新しい契約を告げられます。それは「残りの民」と呼ばれる者たちのことでしょう。これは、古くノアやヨシュアの記事にも見られ、旧約聖書を骨太く縦断している神さまの救いの構図ですが、ここにはその「残りの民」が何者なのかを考えさせられる記事があります。13節以降に「わたしのしもべたちは食べる。しかし、あなたがたは飢える」「わたしのしもべたちは飲む。しかし、あなたがたは渇く」……と何度も繰り返されているところです。「あなたがた」はイスラエル、そして「わたしのしもべたち」が残りの民であることは間違いありません。そして、15節には「ご自分のしもべたちを、ほかの名で呼ばれるようにされる」とあります。「ほかの名」というからには「残りの民」がイスラエルから離れたことを意味していると聞くのが自然でしょう。イザヤは、「主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください」と願ったその願いとは裏腹な「ほかの名」をもって呼ばれる人たちのことを記さなければなりませんでした。断腸の思いで、しかし、それが神さまのことばだから、彼は忠実にそう証言したのです。預言者というものの壮絶な生き方が浮かんでくるではありませんか。

 「ほかの名」、それはクリスチャンのことかも知れません。クリスチャンとはキリストに似た者という意味で、初期教会の時代、異邦人伝道の起点となった小アジアのアンテオケでイエスさまを信じる者たちが呼ばれるようになったものです。神さまは、残りの民に「ほかの名」を冠ぶせようと新しい救いのご計画に着手し、そのことを預言者に伝えました。そして、その救いのご計画はイエスさまに於いて実現したのです。きっと、「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた」という、イスラエルとか異邦人とかの区別なく、ご自分のいのちの息を吹き込まれた者たちをいとおしんでくださる愛が発露していったものではないでしょうか。


V 新らしい天と地が

 その新しい救いのご計画が、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない」(17)と始まります。16節の「先の苦難は忘れられる」に重なるのですが、神さまの救いのご計画は「苦難の中にある者たちを、その苦難から贖い出す」という意味を持っています。「新しい天と新しい地」の創造という輝かしい神さまのみ業が展開されていくのは、「その苦難が忘れられ、思い出すこともない」世界が、「ほかの名」がつけられた残りの民に用意されるということなのでしょう。その苦難には、この世で生き続けていくことの苦しみもあるでしょうが、最も根本的なところに「罪による苦難」があることを忘れてはなりません。その「先の苦難は忘れられる」「先の事は思い出されず、心に上ることもない」というのは何とすばらしいことではありませんか。それが罪赦されて新天新地に招かれる者たちへの祝福でした。

 「新しい天と新しい地」は黙示録21章にある描写とほぼ一致します。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである』」(黙示録21:1-4) これは神さまの都、天国の状景なのでしょう。その状景にイザヤが聞いた新天新地の状景が「ほぼ」重なります。「ほぼ」というのは、黙示録には「もはや死もなく」とあるのに、イザヤのほうには「そこにはもう、数日しか生きられない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者はのろわれた者とされる」(20)と言うように、「死」があるからです。しかも、その「死」は何度も繰り返されています(22、23)。「死」への言及はこのテキストの最大の関心事になっていますが、その「死」は、この新天新地が私たちの極めて身近なところに出現すると暗示しているのではないでしょうか。或る意味で「死」は人間のもっとも身近な存在だからです。もしかしたら終末時に、地上に訪れるであろうイエスさまがご支配なさるメシヤ王国(ある人たちはこれを千年王国と呼ぶ)を、預言者も見ているのかも知れません。私などには千年王国と言われても実感が沸いてきませんが、天国とは別にその王国を神さまが創造し、私たちがそこに招かれると聞くことは嬉しいものです。

 「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」(24)とあります。その昔、エデンの園でアダムと神さまはこのような会話をしていました。新天新地はその交わりに似ているではありませんか。そんな神さまとの関係を失って久しい私たちですが、取り戻したいですね。神さまの招きに応えて。イエスさまが私たちのために贖いとなってくださったのですから。