預言者の系譜
73  イザヤ書・第二部(22)
預言者の祈りは

イザヤ書 63:15−64:12
エペソ書 3:14−21
T 深い苦悩の中から

 63:15-64:12からですが、なぜか新改訳だけが14aで段落を区切り、14bをこのテキストの方に加えています。63:7-14はイザヤの信仰告白で、14bはその最後を飾っていると思うのですが。

 ともあれ、イザヤのメッセージを聞いていきましょう。「どうか天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください」(15)と始まりますが、これは恐らく預言者イザヤの祈りであろうと思われます。ここには、主への問いかけや訴え、賛美、告白までも、預言者の熱い思いがほとばしるように溢れています。そのすべてが彼の祈りとなっているのです。

 細切れにするようで誠に申し訳ありませんが、まず、4回繰り返される問いかけをピックアップしてみたいと思います。冒頭の15節では、祈りに続いて「あなたの熱心と力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか」と、これはイザヤ自身の神さまへのたぎる思いなのでしょうか、ここを「はらわたがねじれるばかりの告白賛美」と表現した人がいます。まさにこれは祈りであり、告白であり、賛美でしょう。その思いがこのテキスト全体に及んでいます。続く3回の問いかけは、「主よ。なぜあなたは、私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか。私たちは、とこしえからあなたに支配されたことも、あなたの御名で呼ばれたこともない者のようになりました」(63:17、19)、「ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました」(64:5)、「あなたの聖なる町々は荒野となっています。私たちの先祖があなたをほめたたえた私たちの聖なる美しい宮は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました。主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って私たちをこんなにも悩まされるのですか」(64:12)と、これらは訴えとペアになっています。特に、4回目は順序が逆で、問いかけをあとにしてこの祈りが締めくくられています。

 これらの問いかけと訴えから、この祈りは主への告白であり賛美でありながら、それは彼の深い苦悩から出たものであると聞こえてきます。特に、「なぜいつまでも黙っておられるのですか」という問いかけでこの祈りを閉じているのは、彼の苦悩の深さを物語ってやまないと感じられます。


U 痛みを負う

 これまでイザヤは何度も、イスラエルの罪を自分に重ねながら告白してきました。それが彼の預言者としてのスタンスになっています。16節にある告白は、まさに彼のそんなスタンスから生まれた告白であると聞こえてくるではありませんか。「まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です」 「私たち」は、恐らくイザヤの同族イスラエルを指しています。「たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても」とあります。「イスラエル」とはヤコブのことでしょう。それは、〈あなたがたは神さまの選びの民イスラエルではないと言われようとも〉、私たちの神さまを慕い求める思いは変わらないということのようです。預言者は、主が彼の祈りを聞いてくださらないということに苦悩しているのでしょう。その思いの中で、確かに今、イスラエルには神さまの民としての歩みに欠けるところがあると、預言者の痛みが伝わってくるようです。その痛みがあるから、いっそう、彼の祈りがこんなにも苦悩に満ちているのでしょう。

 痛みを負う。それは、山上の垂訓でイエスさまが言われたことではないでしょうか。「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい」(マタイ7:3-4) ここが現代の私たちにもっとも欠けているところと思われます。何か問題が起こると、あの人が悪い、この人のここが問題だと、他の人を裁きまくって評論家のようになって、自分が痛み傷つくことに耐えられず、まして、自分自身に問題があるなどとは決して認めようとはしません。親にも先生にも兄弟にも夫にすら不平だらけで、愛情などどこかに消し飛んでいく、それは他人事ではなく、私自身の大きな問題です。誰かの痛みを共有する(人を愛する)なら、この現代もずいぶん住みやすくなるのではないでしょうか。


V 預言者の祈りは

 恐らく、イザヤは自分に残された日々が少ないと感じています。若くに預言者として召し出されて50年ほど、すでに70歳を超えているものと思われます。その彼が神さまの前に立ち、イスラエルのために必死で取り成しをしているのです。これまでにもイザヤはこのような祈りを何度も繰り返してきました。39章−40章の間、60章にかかる前など、何度か沈黙の時間がありますが、それは、魂を神さまに注ぎ出す彼の祈りの時間だったと想像されます。何とかイスラエルに神さまの民として回復して欲しい、しかし、そんな彼の必死の願いにもかかわらず、イスラエルの状況は悪くなっていくばかりでした。この祈りはイザヤよりもずっと後代の無名の預言者のものであって、「バビロン捕囚」からの回復を願うものであると考える人たちがいます。「あなたの聖なる町々は荒野となっています。……私たちの聖なる美しい宮は火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました」(64:10-11)とある光景は、確かにバビロンによるエルサレム破壊に見えます(それを彼は神さまの啓示のうちに見たのでしょう)。しかし彼は、本当に「荒廃」しているのは、実は、イスラエルの民たちの心であり、神さまへの信頼であると見ているのです。それは彼らの罪でした。「ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています」(64:5)とある通りです。

 しかしイザヤは、「まことに、あなたは私たちの父です」(63:16)、「主よ。あなたは、私たちの父です」(63:16)、「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です」(64:8)と繰り返します。ここをみますと、預言者は神さまの民は二つの責任を負っていると考えているようです。「たとえ、人々が私たちを認めなくても」と、「たとえ、神さまが私たちを退けようとも」という状況のもとで、神さまの民は「あなたは私たちの父です」と告白し続ける責任を持っています。つまり、イスラエルは人と神さまと、その二者の前に立たされているという預言者の意識です。それは、イスラエルばかりではなく、現代の私たちにとっても同じではないでしょうか。今、信仰者たちにとって、それは現実となりつつあります。

 「父」という言い方は、私たちは神さまの愛の中に生かされているという告白でしょう。それが預言者の信仰でした。そして、この「父です」という告白には続きがあります。63:16では「私たちの贖い主です」、64:8には「私たちはみな、あなたの手で造られたものです」と言われます。「父」には二重の意味が込められているようで、ひとつは、その昔に神さまが心を傾けて丁寧に創造された者たちにとっての父であるということ、そしてもうひとつは、イエスさまの十字架による罪の赦しを通して為される神さまの新しい創造ということです。今、この神さまの新しい創造こそが、イザヤにとっての望みだったのでしょう。ですから預言者は、(だから)「主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください」(64:9)と祈っているのです。預言者は、近い将来における贖い主イエスさまの出現を心から待ちわびています。それこそ、彼と私たちの愛と希望ですから。