預言者の系譜
72  イザヤ書・第二部(21)
主の旗を掲げて

イザヤ書 62:1−12
黙示録  21:1−5
T 見よ。あなたの救いが

 四苦八苦しながら、イザヤのフィナーレに近づいてきました。62章からです。
 1節(主ご自身のことば。2節からは預言者が語り手と思われる)に「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない」とあります。これは主ご自身の宣言なのでしょうが、同じ宣言が6節にも主のことばを聞く者たちを巻き込んで繰り返されます。これが62章の中心主題なのでしょう。「黙らない」ということから、何を語るのか、語らなかった時に、なぜ語らなかったのかという二つの中心点が浮かび上がってくるようです。二つ目の主題は62章では隠されているのですが、59:1に「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたとあなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」とあります。「聞かない」ことが「語らない」ことの最も中心の理由でした。人々(私たち)の罪こそが主をして「聞かない」「黙している」と言われる最大の原因だったのです。それは現代の私たちと神さまとの関係にも当てはまるのではないでしょうか。59:11に「私たちは、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている」とあります。自分勝手な生き方をしながら神さまの祝福をもぎ取ろうとしても、それは手に入らないと言われているように聞こえてきます。それは私たちの生き方から遠く離れているのです。道徳的に立派な生活をしなさいということではない、罪を離れるとは、何よりもまず、神さまを認めることではないでしょうか。現代人にとって、それが決定的に欠けていると思われます。

 この、主が「黙している」ことを理解するなら、62章の「黙さない」という中心主題が極めて近くに聞こえるようになります。これは11-12にある救いの祝福を宣言しています。「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と。彼らは、聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる」 59:11で「遠くに」かすんでいた救いが、主の祝福として「来る」と宣言されているのです。恐らく、10節にある「通れ、通れ、城門を」とは、エゼキエル44:1-2に言われるトルコのスレイマン大王によって15世紀に閉じられ、現在もそのままのエルサレム・黄金の門を指しているのでしょう。十字架におかかりになる時にイエスさまがそこをお通りになったことを、預言者たちは幻のうちに見たのでしょうか。「救い」がお通りになるのだとイザヤのメッセージが聞こえてきます。


U 神さまの住まいに

 ところで、この章で「あなた」と呼びかける対象はエルサレムですが、預言者イザヤは幻のうちにバビロンに滅ぼされて荒廃したエルサレムを見ているのでしょう。その出来事は、彼の百数十年後に現実となったものです。彼は、その荒廃したエルサレムが輝かしく復興すると語ります。「あなたの国はもう、『荒れ果てている』とは言われない」(4)と。2節以降の語り手はイザヤ自身と考えていいでしょう。ところがその復興は、「あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる」(2-3)とあるように、かつてのイスラエルの罪に汚れたるつぼのような町が再建されたものではなく、全く新しいエルサレムなのです。「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」(5・新共同訳)とあるところは、黙示録の「小羊の婚姻」(21章)にあるような終末の風景に重なってきます。「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである』すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしはすべてを新しくする』」(2-5) 新しいエルサレムは、主に贖われた者たちが招かれる聖なる都です。神さまとともに住まうところと言ってもいいでしょう。このメッセージをお聞きのあなたも、そのところに招かれる幸いを覚えて頂きたいと願います。


V 主の旗を掲げて

 6節に「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない」とあります。恐らくこれは、1節と同様に主ご自身が語ったことばと思われますが、ご自身が「黙さない」と言われた救いの宣言に、主のことばを聞く者たちを巻き込んで「黙っていてはならない」と檄を飛ばしたものと思われます。この「見張り人」は複数形で、預言者たちを指しているものと思われますが、このことばはここにしか用いられませんので、イザヤだけが主の檄を聞いたのでしょう。彼はその檄を聞いて同僚の預言者たちに訴えました。「主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない(主の沈黙を招いてはならない・新共同訳)」(6-7) 預言者という神さまのことばのために召し出された者たちの職務は、神さまから聞いたメッセージを人々に伝えるものでしたが、特に7節の新共同訳が明確に訳しているように、主が再び「黙りこんで」しまわないようにすることでした。きっと、神さまのことばを聞く者たちがいることで、神さまは語り続けるのだと言われているのではないでしょうか。「見張り人」としての彼らの職務の最も重要な部分は、神さまを見つめているということだったのです。イザヤより約70年後の預言者ハバククはそのことをはっきりと述べています。「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう」(2:1) ハバククもエリヤ以来の伝統を受け継いだ預言者の系譜に属するひとりとして立ち続けたからこそ、そのように言えたのではと思われます。

 とっぴな想像かも知れませんが、私は、このエルサレムを教会、見張り人を現代のクリスチャンたちと聞いてみました。「この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を掲げよ」(10)とは預言者たちが託された務めなのでしょうが、現代の信仰者たちも同じようにその務めを託されていると聞こえてきます。断じて神さまを認めようとはしないで破滅への道を歩み続ける現代に、特別に主を信じる信仰の旗を高く掲げる必要があるのではないでしょうか。「通れ、通れ、城門を」(10)とは、救い主イエスさまがお通りになることだと聞きましたが、城門そのものをイエスさまと考えますと、その門を通って欲しいと願うのは、現代の人たちになのだと聞こえるではありませんか。その門に至る道を広げ、整えてイエスさまの救いの旗を掲げるのは私たちなのです。「見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。『シオンの娘に言え。「見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある」と。彼らは、聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる』」(11)と、主の宣言が高らかに語られますが、きっと系譜に属する預言者たちは、その祝福を語り続けてきたのでしょう。おもしろいことに、極めてユダヤ人好みの祝福が8-9節に語られていますが、そこに「わたしの聖所の庭で、それを飲む」とあります。これが救われた者たち・イエスさまの十字架に罪赦された者たちの招かれる新しいエルサレムの状景なのだと見えるようです。その招きの時が近づいてきました。主にお会いするその日まで信仰の旗を掲げていこうではありませんか。