預言者の系譜
71  イザヤ書・第二部(20)
祝福の主を

イザヤ書 61:1−11
ヨハネ  11:25−26
T 最高のゲストを迎える前に

 預言者とは、神さまのことばを取り次ぐ者のことです。どのような状景の中だったのか分かりませんが、神さまの啓示を聞いているイザヤのテンションが上がってきます。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者によい知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」(61:1)と、イザヤは目の前にそのお方を見ているかのように語り始めます。余りにもその描写がリアルであるために、これは彼自身のことを言っていると考える人もいるほどです。しかし、イエスさまがナザレでここを引用し、「きょう、聖書のこのことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」(ルカ4:16-21)と言われたとおり、これは救い主を指しており、イザヤはいよいよ明確にそのお方を見つめていると言ってまちがいありません。語り手の「わたし」は主のしもべであり、イザヤはそのお方ご自身が語ることばを聞いているのです。ここはイザヤ最後のメッセージを華やかに彩るクライマックスであると言っていいでしょう。

 「貧しい者によい知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために」 「貧しい者」とは「苦しむ者、抑圧されている者」ということばです。この油注がれた者は、ことばだけで慰めやいやしを語ったわけではありません。ご自身も傷つき苦しむことで、傷つき苦しんでいる人たちの痛みをその身に背負われたからこそ、福音は祝福となって溢れ出ました。「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである」(2-3)とあります。その祝福はまるで祭りか結婚式の喜びのようですが、「頭の飾り」「喜びの油」「賛美の外套」とは、最高のゲストを迎えた時のもてなしと感じられます。救い主こそまさに最高のゲストではありませんか。「復讐の日」はここに似つかわしくありませんが、63:4を見ると「復讐の日」と「贖いの日」が並べられており、終末の日にはその二つが行われるということなのでしょう。預言者には、ヨベルの年(レビ25章)が念頭にあるのかも知れません。或る者たちにとっての裁きと滅亡の日が、主の救いに与る者たちにはまさに祝福の日、喜びの日であるという宣言と聞こえます。厳しいことかも知れませんが、その日が来ることを聖書は何度も明確に語っているのですから、裁きと破滅を迎える人たちが一人でも少なくなるよう、今こそ福音を宣べ伝えなければならないと信仰者たちは肝に銘じておかなくてはなりません。


U 新しい祭司の民は

 信仰者たちへの祝福、「海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなる」と、これは新しい展開を迎えた60章でも語られていますが、同じことが4-8節に繰り返されています。「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人はあなたの羊の群れを飼うようになり、外国人があなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる……」 その祝福を聞く前に、この「しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる」(6)とある言い方に注目したいのです。

 イスラエルではかつてその役割をレビ族が担っていました。そして、イスラエル民族そのものが世界という広がりの中で祭司の国と位置づけられたのです。それが選びの民ということでした。「他国人」「外国人」というのは、「その国で」(7)とありますから、そこは外国人の地なのでしょう。イスラエルの人たちが寄留している地で、その土地の人たちがイスラエルを祭司の民として敬うようになると言われているのです。彼らはせっせと献げものを運んできて、「あなたの羊を飼い」「畑をたがやす」ようになると、そんな状景が映ってくるではありませんか。あたかも捕囚の民イスラエルに奉仕するバビロンやペルシャの人たちということですが、ダニエル書やエステル記にはそんな状景が描かれており、一部の近代聖書学者が「第三イザヤ」といって、その時代の無名の預言者が見た光景を記したのだと言うのも頷ける気がいたします。しかし、その時代のイスラエルは選民としての誇りだけにしがみつき、祭司の民であることを放棄したまま、再び破滅への道を突き進んでいました。「昔の廃墟を建て直し……」(4)とあるような光景、やがて彼らは第二神殿を建て上げるのですが、それはヘロデの拡大神殿を経ながら跡形もなく崩れ、ユダヤ人たちは二千年近くも放浪の民となってしまうのです。イエスさま弟子たちの時代、AD70年のことでした。そしてそれは、現代のイスラエルについても言えることと思われます。彼らは祭司の民に選ばれながら、かつて一度もそのように神さまと他国人との仲保者たる務めを果たそうとはせず、今もその姿勢に変わりありません。預言者はここで新しい祭司の民を見つめようとしているのです。


V 祝福の主を

 イザヤはその光景を、終末という主のしもべが慰めと喜びをもたす日に起こる出来事と聞いているのです。祭司の民は歴史上のイスラエル民族ではなく、救い主の祝福を聞く主の民・新しいイスラエルと聞いていいでしょう。彼は今、極めて現代的な意味での世界、あるいは宇宙船地球号という広がりの中で主の祝福を聞いています。現代の私たちにとって、何十年か前には想像もできない広い世界でした。神学生のころ、エルサレムの町を歩いて見たいとは夢のまた夢でしたが、みるみるうちにそれが実現不可能なことではなくなり、ツアーを組んでイスラエルパック旅行が日常的に行われるようになりました。私など一人旅で行って来たほどです。恐らく、終末という時代は現代よりもいっそう世界が狭くなっているでしょう。すると、預言者が何の説明もなしに言う「われわれの神」ということばも、頷けるではありませんか。それは、誰もが神さまを「私の主」と認め、信じ、仕えるようになるということではありませんが、敵対しながらも、その神さまが存在し、恐らくその方が最高の神さま、もしかしたら唯一の神さまであるとひそかに考え始めることを意味しています。少なくとも日本では、キリスト教が入ってきた明治以後、漠然としてではありますが、そんな傾向が重みを増してきました。きっと、外国人たちが主の祭司たちを尊敬するのも、そんな漠然とした感覚の中でのことなのでしょう。

 しかしイザヤは、そんな漠然とした唯一の神さまを指し示そうとしているのではなく、油注がれた者・主のしもべの祝福を通して唯一の神さま・「あなたは、わたしが、あなたを救う主、あなたを贖うヤコブの全能者である」(60:16)という、そのお方を見つめるよううながしているのです。「彼らは義の樫の木、栄光を現わす主の植木を呼ばれよう」(3)とあるのは、語り手・主のしもべと預言者イザヤの心からの願いなのでしょう。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ」(10)とあるその語り手は、預言者自身であるとか、主のしもべであるなどといろいろ意見が分かれていますが、いづれにしても、終末・神さまのみ国での様子が語られており、それは私たちへの祝福を思わせるものとなっています。「地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせる」(11)、そんなときがじきにやって来るのです。確かに今は義も賛美もかすんでいますが……、しかし、そのときが確実に来るという約束が語られているのです。主の祝福は、その約束の中で聞かなければならないものでしょう。私たちはその約束を、イエスさまの十字架とよみがえりに聞き、信じました。極めて単純な信仰のことがらですが、イザヤはその信仰を語っていると聞こえてきます。祝福の主・イエスさまを、信仰の目で見つめなおしてみましょう。