預言者の系譜
70  イザヤ書・第二部(19)
主の祝福に望みを

イザヤ書 60:1−22
黙示録  21:1−76
T 暗やみの中で

 イザヤは59章まで語った後、また少し沈黙していたのでしょうか。60章から新しいメッセージが始まります。20歳の頃に預言者として召し出されてから約50年、すでに70歳を超えていると思われますが、彼は残りの時間が少ないと感じています。伝説(疑典・イザヤの殉教と昇天)によりますと、彼はマナセによってのこぎりで引かれて殉教したと伝えられますが、すでにそのマナセの時代に入っています。マナセは南王国の王たちの中でもかなりひどい人物でした。66章までのイザヤ書のフィナーレで、イザヤは全精力を傾けて伝え残したものを語り始めます。私自身その年齢に近づいて来たせいか、預言者としても人間としても、非常に円熟したメッセージであると聞こえてきます。円熟してからの沈黙の期間、彼は神さまの新しいメッセージをより深く聞き取っていたのでしょう。60章以降は、これまでのようなイスラエルの罪を告発がほとんどなくなり、神さまの新しい祝福で溢れていると感じられます。きっと、彼の伝え残したメッセージは、その神さまの新しい祝福、神さまの民が新しい世界に迎え入れられる祝福なのでしょう。そんな神さまの祝福が、お一人お一人に届きますよう願っています。

 冒頭に「起きよ」(1)とありますが、預言者の目には、この民が眠っていると映りました。罪の暗黒の中に埋没していると言ってよいでしょう。59章はその暗やみに言及していますが、「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切となり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(1)とあるその暗黒は、マナセ時代のイスラエルを彷彿とさせます。預言者などごく一部の人たちを除いて、神さまから遠く離れた歩みしかしていません。マナセはその代表格だったようです。そして、それは現代の私たちそのものと思われます。毎日のように新聞紙面を賑わせる事件、依然続くアフガンやイラクでの報復合戦などを見ますと、憎み合いだけが現代の趨勢として勢いを増しつつあると悲しくなります。


U 輝きの世界に

 そんな私たちになのでしょうか。預言者は、「起きよ。光を放て」と呼びかけます。眠りから覚めるように促しているのです。「あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ」という言い方は、「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている」(2)という暗やみを挟んで、もう一度繰り返されます。「しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」(2-3) この繰り返しには、もともと光を持たない者たちに、光を受け止めて欲しいという願いが込められているようです。暗やみにいることに慣れてしまった者たちには、光が注がれていると言われても、半信半疑かも知れません。預言者は、そんな者たちに丁寧に「主の栄光があなたの上に輝いている」と二回も繰り返して、あなたは暗やみの中から輝きの世界に招き出されたのだと宣言しているのです。

 そして、注がれているその「栄光の輝き」と、繰り返しの中にある「あなたの光」とは区別されているようです。恐らく1節の「あなたの光」は「来て」とありますから、元来なかった光、注がれた光のことかと思われますが、次の3節にある「あなたの光」は、栄光の主の輝きが注がれたものであり、それが「あなた・私」自身の発する光源体になっていると聞こえます。暗やみの時代に、そんな光を持つ者に召されていると自覚したいものです。そして、主の栄光の輝きを注がれた私たちは、他の人・まだ暗やみで光を求めて手探りしている人たちを照らす責務を担っていると聞かなければなりません。きっと、私たち自身も苦悩し傷ついていた暗やみの深さに、その人たちはまだ気づいていないのかもしれません。私たちが輝いていることで、彼らがその暗やみの深さや怖さに気づいていくように、そして、神さまを信じる光の世界があることに注目して欲しいと願いながら。


V 主の祝福に望みを

 1-3節まで、光と暗やみについて長々と抽象的な言い方をしてきました。極めて大切な部分ですが、まだ序文ですし、イザヤ自身の言い方もそうなのですから、ご勘弁願います。4節以降、66章の終わりまでがイザヤの本文なのでしょう。光と闇が次第にその正体を明かしていくようです。いくつかピックアップしてその具体的な証言を聞きたいと思います。

 まず、60章に散りばめられている暗やみの部分からです。4節に「彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来る」とあり、9節にも「あなたの子らを遠くから来させ」とあり、「(神さまから)遠く離れている」のがイザヤの思いの中にある暗やみではなかったかと感じられます。彼ら、息子、娘とは3節にある国々や王たちですが、それはユダヤ人、異邦人の区別を超えた世界中の人たちのことでしょう。「あなた」とはエルサレムのようですが、きっとエルサレム以上の存在、神さまの光り輝く都を指しているのでしょう。「彼らはみな集まってあなたのもとに来る」と、これは終末のイエスさまが支配なさる王国を指しています。ヨハネがその王国の様子を黙示録にこう記しています。「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」(21:4) しかし、遠くにいる者たちには、悲しみや苦しみ、叫びの毎日であったと言えるでしょう。「あなたを苦しめた者」(14)、「あなたを侮った者」(14)、「あなたは捨てられ、憎まれ、通り過ぎる人もなかった」(15)、「あなたの嘆き悲しむ日」(20)、「あなたの国の中の暴虐、あなたの領土のうちの破壊と破滅」(18)など、預言者もそのように感じているようです。「あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない」(20)とあることばには、太陽が沈んだ夜の暗やみの中で嘆き悲しみ、人知れず死を選んでいく人たちのことがよぎるではありませんか。そして金銀財宝のことが何回も語られていますが、恐らく、それを所有する一握りの人たちの陰に、大部分の極端に貧しい人たちがいると思うのは私のひがみでしょうか。そして、現代がそんな状況に限りなく近づいて来ていると思うのです。

 預言者は今、終末の王国を明らかにしようとしています。すると、暗やみはその過程にある不法の支配する悪の輝きではありませんか。もう、その黒い輝きの時代が始まっているのかも知れません。しかし、「目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る」(4)と、光の国に招いてくださる神さまの祝福、まばゆいばかりの状景が私たちを待っていると預言者の祝福のことばが聞こえてきます。その祝福には、想像もつかないほどの光景が加えられています。「海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなる。らくだの大群、ミデヤンとエファの若いらくだがあなたのところに押し寄せる。これらシェバから来るものはみな、金と乳香を携えて来て、主の奇しいみわざを宣べ伝える……」(5-6)、「タルシシュの船は真先にあなたの子らを遠くから来させ、彼らの金銀もいっしょに」(9)、「わたしは青銅の代わりに金を運び入れ、鉄の代わりに銀、木の代わりに青銅、石の代わりに鉄を運び入れ、平和をあなたの管理者とし、義をあなたの監督者とする」(17)「主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる……」(19-22)

 「金と乳香を携えて来て……」とある6節にご注目ください。 多くの説教者がこの箇所をイエスさまご降誕の様子に重ね合わせていますが、イエスさまが受けたと同じ祝福が私たちに注がれると思うと心が踊るようです。その光栄に招いてくださる主に希望をつなごうではありませんか。