預言者の系譜
7  エリシャ(1)
主の訓練に応えて

T列王記 19:15−21
  マルコ 6:45−52
T エリヤの後継者として

 前回まで系譜最初の預言者エリヤを見てきましたが、今朝から系譜二番目の預言者エリシャに入ります。第一回は彼の召命ですが、「主は彼に仰せられた。『さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行きハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油を注いでイスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ」(15−16) とあります。この少し前エリヤは、イスラエルの王アハブやイゼベルにいのちを狙われて勇気を失い、シナイ山まで逃避しますが、彼はそこで、「エリヤよ。ここで何をしているのか」(19:12)と、 神さまの細いかすかな声を聞きます。そこに、作り上げた預言者集団をイゼベルにつぶされ、いのちまで狙われて弱っているエリヤへの憐れみが聞こえます。主との新しい出会いです。

 今朝の箇所は、そんな信仰の新しいいのちを頂いたエリヤが、希望に向かおうとするそこで起こった出来事です。エリヤは、優しく囁くように語りかけられる神さまに「イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを殺した」(19:14)と訴えます。稲妻のようなとどろく大きな声で語り掛けられたなら、エリヤは神さまの前に顔を上げることも、弱り切った心根をさらけだすことも出来なかったでしょう。彼の預言者としての使命は、アハブ、イゼベルを中心とする神さまから離れたイスラエルの人たちに、神さまへの信仰の回復を願い、その障害を取り除くことでした。バアルの預言者たちを滅ぼした(18章)ことも、その願いからです。神さまはエリヤに対して限りなく優しく、アハブとイゼベルに敵対する者として、アラムの王にハザエル、イスラエルの王にエフー、そしてエリヤの後継者にエリシャを立て、「彼らに油を注ぎなさい」と言われます。それは「ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す」(18)という神さまのイスラエルご介入の約束でした。そして、その約束はその通りになるのです。


U わずかな残れる者たちのために

 しかし、ダビデ王家を離れた北王国も、神さまの約束の選びの民です。彼らの滅亡は決してエリヤの喜びではなく、アハブやイゼベルを含め、神さまから離れようとする民の悪い芽を摘み取りたかったのです。神さまはそんなエリヤの気持ちをご存じで、「しかし、わたしはイスラエルの中に7千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である」と言われます。この7千人がどのように残されたか明らかではありませんが、北王国はBC722年にアッシリヤ侵略によって消滅し、わずかにガリラヤ地方に残った人たちが、混合民族となりながらイスラエル人としての意識を持ち続けますが、神さまの約束はそのことを指していたのではないでしょう。それから八百何十年か後に、パウロが「『バアルにひざをかがめていない男子7千人が、わたしのために残してある』それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます」(ロマ11:4−5)と言っていますが、パウロは、イエスさまを信じたクリスチャンをその残りの者と見ているようです。7千人というわけではないが、わずかな一握りの人たち。エリシャはその残りの民のために預言者として召し出されました。彼はエリヤの、神さまへの信仰を守り通したいとする思いの希望だったのでしょう。

 エリヤとエリシャの出会いですが、「エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは12くびきの牛を先に立て、その12番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。『私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから』エリヤは彼に言った。『行って来なさい。私があなたに何をしたというのか』エリシャは引き返して来て、1くびきの牛を取り、それを殺して、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた」(19−12) 16節に彼の出身地がアベル・メホラとあります。ヨルダン渓谷にあった小さな村らしいのですが、12頭の牛を使っているところから、かなり裕福な農民の息子だったのでしょう。エリヤは、神さまから言われた通り後継者を探しに来て、エリシャを見つけます。


V 主の訓練に応えて

 「馬は引き、牛は追う」と聞いたことがありますが、エリシャが12番目の牛の付けている農機具で畑を耕しながら、前を行く11頭の牛を追い立てていたのはまことに理に適っていて、頭の良い熟練した百姓を連想させます。だからでしょうか、エリヤが道をはずれて自分の畑に入って来るのを咎めもせず、何か目的があってのことと、エリヤの言葉を待っていたようです。しかし、エリヤが彼に語りかけたという印象はありません。恐らく、服装からそれと分かる預言者が、そのシンボルたる「毛衣」(U列王1:8)の外套を脱ぎ、それを自分に着せ掛けた時、彼を預言者の弟子にというエリヤの意図を理解したのでしょう。

 エリヤが彼のそばを通り過ぎようとしたことは、ガリラヤの海の上を歩いて弟子たちの舟のそばを通り過ぎようとされた、イエスさまの出来事(マルコ6:48)とよく似ています。弟子たちはそれがイエスさまと分からなかった。そんな状況の中でも、気づいて欲しいと願いながら、それがイエスさまの訓練だったのでしょう。エリヤの場合にも、言葉をもってエリシャを招こうとはしていません。エリシャを後継者に選ばれたのは神さまご自身であって、エリヤはただ、自分の外套を彼に着せ掛けるだけで良かった。既にエリシャの預言者としての訓練は始まっていたのでしょう。

 これまでに何回も言ってきたことですが、イエスさまを信じた私たちは、現代への預言者として召し出されています。未来を予見するという意味ではなく、現代と未来への鋭い洞察力が養われ、神さまのことばを伝える預言者として召し出されたということです。何をどのように伝えるかは、伝える人の洞察力によります。イエスさまを信じる信仰は、数学のような公式化したパターンで語れるものではないからです。エリシャが受けた訓練を、私たちも必要としているのではないでしょうか。

 エリシャはエリヤの期待に応え、通り過ぎたエリヤに追いついて彼のほうから言います。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きます」これは、イエスさまがガリラヤ地方で連日眠る暇もないほど働いておられたとき、一人の弟子が「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください」と言ったことに似ています。イエスさまは彼に、「わたしについて来なさい。死人たちのことは死人たちにまかせなさい」と言われます(マタイ8:21)が、イエスさまに従うことの厳しさをそこから学んだ人たちは多いのです。しかしエリヤは、「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか」と突き放します。急いで家に戻ったエリシャは、牛をほふって豪華な食事を用意し、家族との最後の晩餐を行ないます。家に帰ることは二度とあるまいという、固い決意だったと想像します。彼は預言者として50年ほど生き、奇跡に類する不思議を、エリヤよりもずっと多く行なっています。それは、エリシャがその生涯を、神さまからの訓練と応答の中で忠実に過ごしたことを物語っているようです。見習いたいものです。