預言者の系譜
69  イザヤ書・第二部(18)
光ある間に

イザヤ書 58:1−14
ヨハネ 12:35−36
T 預言者の告発を

 イザヤのメッセージを最初に聞いた人たちは誰だったのでしょう。恐らく、イザヤの弟子たちでした。イスラエルにはエリヤ以来多くの預言者集団がありましたが、〈先生〉のメッセージを携えて弟子たちが出て行き、そのメッセージを大声で朗読していました。きっと、イザヤと弟子たちもその伝統を継承していましたから、「せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように声をあげよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ」(58:1)とあるのは、弟子たちにメッセージを託した時の状景だったと想像されます。ところが、何度も繰り返しイスラエルの罪を告発するイザヤのメッセージは、ユダヤ人たちの激しい反発に出会いました。「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか」(3)と。「彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。……」(2)と言われたのは、きっと預言者の皮肉なのでしょう。〈彼らが神さまの道を求めている〉というのは形式的な宗教生活に過ぎませんでした。断食や荒布をまとい灰をかぶって身を戒める、そして安息日を守ることも、彼らの宗教的熱心を誇示するのに役立つものであったに違い有りません。

 断食は旧約聖書のあちこちに記されていますが、ほとんど散発的かつ自発的なもので、罪の悔い改め、悲しみの表現として行われていました。それがモーセの律法として制度化されたものになりますと、意外なことに、年一度(ユダヤ歴・第7の月10日)の贖罪の日(レビ記23:26-32)だけなのです。しかし、制度化ということになりますと、人間の悲しい一面なのでしょうか。それが次第に増えていきます。月に一度とか毎週というように、断食日が制定されてきました。恐らく、イザヤの時代には相当数の断食日があったものと推定されます。その断食日に、ユダヤ人たちはさも悲しそうに荒布をまとい、灰をかぶって断食している様を誇示していたのでしょう。ところが、彼らが宗教的な悦楽に浸っている最中、「あなたがたの労働者をみな圧迫する」(4)と言われます。この労働者は彼らの負債者であって、そのために奴隷になった人たちのことと思われます。彼らはその人たちを酷使しているのです。断食日という本来安息をもたらすべき日に! 預言者の怒りが爆発します。


U 正義と信仰と

 「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか」(6-7) 神さまの求める断食は、決して宗教的行為という公式などではないと、預言者のメッセージが伝わってきます。問われているのは私たちの中身そのものなのです。

 少々理屈っぽいことを言うようですが、ご容赦ください。「悪のきずな」「くびきのなわめ」とあります。恐らく、それは「裸の人を見てこれに着せ……」という貧しい人たちへの配慮が欠けているところに生じた「くびき」のことで、「(負債から奴隷となった)労働者」(4)を指しているのでしょう。そして、まるでそれが救いの条件でもあるかのように、「もし、あなたの中からくびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら」(9-10)と言われます。これは、6-7節を繰り返すことで、「神さまの好む断食」を強調しているのでしょう。「つまらないおしゃべり」は「呪いの言葉をはく」(新共同訳)ことで、人を中傷したり、謂われなく非難したりすることを意味しています。それが、「うしろ指を指す」ことも合わせて、他の人たちへの「くびき」になっていることに気がつかなければなりません。「飢えた者に心を配る」は貧しい人たちにパンを施すことですが(7)、パンだけで十分なほど人間は単純ではありません。「苦しめられている人の願いを満たす」(新共同訳)とは、パンとは別のところで絶望している飢えた人の、その深い苦悩の慰めになることが求められているのでしょう。それは、苦悩もより複雑になっている現代に、一層必要なことではないでしょうか。ここには、人と人とが顔を突き合わせている人間社会、そこに神さまがいらっしゃるような正義がなければと言われているのです。

 さらにイザヤは、「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日をはえある日と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら」(13)と、56章で語られた安息日をもう一度取り上げます。ここに語られる条件は、人間社会の真っ只中において神さまのことをどれほど大切にしているかという、神さまを信じる者たちの信仰姿勢を問いかけるものでしょう。そして、断食と安息日のことは、イスラエルだけではなく、私たち神さまから遠く離れた者たちの最大の問題点でした。断食と安息日は、「あなたは神さまの正義を行なっているか」「神さまを信じる信仰があなたの中心になっているか」ということですが、きっとそのどちらも、神さまをあなたの神さまとして歩んでいるかという同じ問いかけだと聞かなくてはなりません。信仰の中身が問われているのです。


V 光ある間に

 ところで、「わたしの好む断食は、これではないか……」とあるところから、イエスさまが話されたことが思い出されます。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです」(マタイ25:34-36) イスラエルにとっては、弱者への配慮ということが神さまの民として歩むための極めて大切な生き方でした。ところが、ユダヤ人たちはいかにも敬虔な信仰者であるかのように断食しながら、その一方で、信仰者が目を向けなければならない弱者に対して全く心を閉ざしています。断食も安息日も彼らにとって宗教的な儀式でしかなかったのです。それも他人の目にどう映るかが最大の関心事であるような! イエスさまは、そのモーセ以来の人の生き方を、「終末」を語る中で取り上げられました。十字架におかかりになる直前のことです。きっと、イザヤの時代よりもイエスさまの時代が、それ以上に現代が、そして終末の時代にはさらに……! 中身の薄い人間の時代になっていくのでしょう。

 そんな時代をイザヤは見通していたのでしょう。まるで彼は、上っ面でしか評価しない現代の風潮そのものに警告を発しているようではありませんか。しかし彼は、罪の告発に大きなスペースを割きながら、それ以上に、神さまの祝福を語ることに力を込めています。「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる」(8)とあり、「あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる」(10)とあります。「あなたの光」とは、あなたの光となってくださるお方のことでしょう。60:19に「主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる」とあります。それは、彼がこれまでに語ってきたインマヌエル・主のしもべにほかなりません。イザヤはここで、全精力を傾けて救い主イエスさまを指し示し、イエスさまの道備えをしていると聞こえてきます。この58章、前半の5節までは「あなたがた」と呼びかけているのに、6節以下の後半では、それが「あなた」になっています。救い主の祝福を「あなた」と「私」への招きと心を込めて聞き、それに応えていきたいと願います。イエスさまが私たちの罪のために十字架に死んでくださったことを、私たちの光としてしっかり受け止めようではありませんか。