預言者の系譜
68  イザヤ書・第二部(17)
心の耳を澄ませて

イザヤ書 57:14−19
ヨハネ 20:26−29
T つまづきの真っ只中に

 イザヤ第二部が40章から始まった時、その初めに「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ」(3)とありました。それは、バプテスマのヨハネの使命でもありましたが、預言者はことさらにそれを〈現代の私たちを救いに至らせる主の栄光の道、イエスさまを指し示している〉と聞きました。数年後、預言者はそれと同じことを57章に繰り返します。「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け」(14) 56:9-57:13にある預言者の厳しいことばはその「つまずき」の一端なのでしょう。そして、「神さまの民」からそのつまずきを取り除く者は「主のしもべ」だと、預言者のメッセージが伝わってきます。そしてイザヤは、しもべの苦難の贖いを通して与えられる祝福を語り始めました。56章では特に「弱い人たち」への祝福が語られ、それは、神さまの民から遠く離れていると絶望している外国人や宦官たちへの招きでしたが、57章ではそのような人たちに重ね合わせて私たちのことが語られているようです。

 「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる」(57:15) 旧約聖書では神さまにさまざまな形容詞がつけられていますが、ここでイザヤが用いた形容詞は注目に値します。中でも「永遠の住まいに住む」という形容詞に注目したいのです。「その永遠の住まいに私たちを招いてくださる」、それがここの中心メッセージであると聞こえてきます。

 57章前半には何度も「寝床」が出てくるのですが、それは「つまずき」の住まいです。「永遠の住まい」とは、その「つまずきの住まい」に対照されながら語られているようです。イスラエルはカナンに定着しますと、バアル神など土地の神々を受け入れ、それが豊穣の神々(繁殖神)ということで、古来の農業神を祭る宗教にありがちなオルギア(たとえば、神々の前で男女乱交が行われる。或いは巫女は娼婦だった等)のような不品行に走っていきました。きっとイザヤの時代にも、イスラエルにそのような狂乱ぶりが極めて大きく膨れ上がっていたのでしょう。「つまずき」はそのことを指しています。イスラエルはそのことで神さまと預言者たちの激しい怒りを買うのですが、恐らく、ここでイザヤは、イスラエルへの断罪に重ね合わせながら、現代の私たちをも断罪しています。現代という時代が彼らと同じようなオルギアに、否、それよりもずっとずっと性的乱れも、いのちの軽視も、欲望も……、まさに狂乱と呼んでもいいほどの、神さまなしの破廉恥に向かって突き進んでいると感じます。預言者の目には、そんな私たち現代のことが映っていたのではないでしょうか。それは決して不思議なことではありません。現代は「つまずき」の真っ只中に「住んで」いるのですから。


U 慰めの道を

 ところが、神さまはそんな私たちを「永遠の住まい」に招こうとしてくださるのです。〈誰を?〉イザヤが語るそのメッセージを聞いていきたいと思います。「永遠の住まい」とは、永遠なるお方、神さまの住まうところと言ったほうがいいでしょう。「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」(伝道者の書3:11)とあります。きっと、神さまを見つめていくなら、そんな遙かな世界がかい間見えてくるのです。旧約聖書には天国とか神の国といった言い方はないのですが、それに代わる美しい言い方が実に豊富ですね。その時代に「永遠」という概念が民衆のレベルで語られています。刹那的なものしか見ることが出来ない現代人は、もっと謙遜にならなければいけないのではないでしょうか。

 その永遠の住まいが「高く聖なる所」に言い換えられています。「わたしは高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(15) それは恐らく、人が罪に打ち砕かれて低くされた状態「砕かれた心をもってへりくだった人」に呼応しています。預言者は、神さまが住まう高く聖なる所には、へりくだり、低くされた者だけが招かれると言っているのでしょう。しかし、へりくだること、自分の罪を神さまの前における罪であると認めることは、とても大切なことですが、イスラエルを例に出すまでもなく、非常にむつかしい。いや、むつかしいというよりも、恐らく、不可能に近いでしょう。それほど人間というものは神さまの前では頑なになってしまうのです。けれども、神さまのほうが一歩も二歩も引き下がって、「わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから」(16)と言ってくださるのです。「霊」も「たましい」も神さまに創造された私たちを指しますが、私たちは決して神さまの怒りの前に立つことができないのです。そのことをよくよくご承知の神さまは、私たちのために慰めの道を整えてくださいました。


V 心の耳を澄ませて

 ところが、人というものには、神さまの道を見つめることが徹底的にむつかしいのです。「わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して(ご自分を押さえながら)怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った」(17) こう聞きますと、それは現代そのものではないでしょうか。しかし神さまは言われます。「わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼(と)、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう」(18) ここを見ていますと、神さまのあわれみと人の自分勝手な歩みとが何度も交錯していますが、それは、イスラエルの歴史における神さまの忍耐そのものであると感じます。神さまは何度も彼らにあわれみをかけてこられました。そして、それは私たちに対しても全く同じなのですが、次第に神さまのみ心は、主のしもべを遣わすことへと固まっていったと想像するのです。もはや神さまからの一回限りの最終的なあわれみ・慰めでしか、罪にまみれきった私たちを救うことができないと、はっきりしてきたということなのでしょう。

 「いやし」「慰め」と言われます。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです」(Tペテロ2:24)とあるところを思い出しますが、罪は他人を傷つけると同時に、自分自身も傷を負うのですね。いや、自分の傷のほうがずっと深くいやし難いと言ったほうがいいでしょう。現代人はこのことに気づいて欲しいのです。そして、罪に苦しんだことのある方にはお分かりでしょうが、いやしの必要な人には、慰めも必要なのです。イエスさまがそのいやしと慰めになってくださいました。それが神さまの最終的な、一回限りの、しかし十分なあわれみでした。イエスさまがご自分のいのちをもって、そのあわれみになってくださったからです。

 「『わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう』と主は仰せられる」(19) 「平安あれ」、これは神さまの宣言です。この宣言をぜひとも聞いて頂きたいのです。神さまの宣言には力があります。十字架にイエスさまを失って意気阻喪していた弟子たちもその宣言を聞きました(ヨハネ20:21)。そして立ち上がったのです。そして今、その御声があなたにも聞こえてくる筈です。心の耳を澄ませるなら。「あなたをいやそう!」と。「くちびるの実」は、神さまを賛美する歌声、罪を赦されて平安を得た者たちの心からの感謝、或いは、そんな人たちの祈りなのでしょう。このメッセージを語る時にも、それが神さまから与えられた「くちびるの実」でありたいと願わさます。きっといやされ、慰められた者たちのくちびるには、そんな実が生まれます。「近くの者」「遠くの者」とは恐らく、神さまを見失って絶望している人たちのことでしょう。十字架とよみがえりの主が「わたしはあなたのすぐそばにいる。平安あれ」とささやいてくださいます。もし不安を抱えているなら、苦しんでいるなら、そして絶望しているなら、そのいやしの御声を聞こうではありませんか。神さまが招いてくださる永遠の住まいに心からの期待を寄せながら。