預言者の系譜
67  イザヤ書・第二部(16)
祝福に招かれて

イザヤ書 56:1−8
エペソ書 2:11−22
T 神さまを覚える

 56章からイザヤは、しもべの贖罪によって主の民とされた者たちの新しい歩みについて語り始めます。40章以降をイザヤ第二部として見てきましたが、それは、39章までが書かれてから、長い時間が経過し、イザヤが神さまの新しい啓示のもとに開けた「主のしもべ」による神さまの救いの達成という展望を主題にしているからでした。 そして預言者は、もう一度少しの間沈黙していたようです。56章から66章までを、ある人たちが「第三イザヤ」と呼んで別人のものであるとしている理由もそこにあるのでしょう。もっとも、彼の沈黙はそれほど長くなかったと思われますし、主題も主のしもべから全く離れているわけではありませんが、これをイザヤ第三部とはしません。しかし、預言者がここからさらに新しい展望を神さまから教えられ、きっと、彼自身もわくわくしながらこれを書き記していったと想像するのです。私たちもわくわくしながら読み進んでいこうではありませんか。

 「主はこう仰せられる。『公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ』」(1) 公正とは、神さまの目に正しいと映る状態のこと、正義とは、その公正を保つために私たちが神さまのみ心を行うことを言っています。そして、その公正な社会は、神さまが支配なさる新しい世界を指していると考えていいでしょう。「わたしの救い、わたしの義は近い」その世界がすぐ近くまで来ているという神さまの宣言です。現代の私たちはことさらに聞かなければと思います。私たち主に贖われた者たちはその世界の住民にふさわしい者となっていかなければなりません。それがつまり、公正を守り、正義を行なう歩みです。現代の、加速しながら欲望や自己中心に染まっていく状況とは正反対の歩みが求められていると理解しなければなりません。

 そのような歩みが具体的に示されます。「安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない」(2) 「悪しき事をせず」(口語訳)というのは公正を守り正義を行なうことの延長と考えていいでしょう。しかし、そこに並べて「安息日を守る」ことが最重要課題のように上げられています。律法には他にも「守りなさい」と言われることがあるのに、なぜ安息日なのでしょうか。きっと、イザヤ時代のイスラエルでは、安息日が忘れられていたものと思われます。これまでイザヤ書で何回も繰り返されてきた「正義がない」というイザヤの主張では、神さまを無視したイスラエルの生活が浮かび上がってきますが、「神さまを思い出しなさい」というメッセージこそが彼の中心主題でした。そして、神さまを覚える中心が安息日を守ることではなかったかと思うのです。


U 悲しみの人たちに

 「幸いなことよ」と、安息日を堅く守る人たちへの祝福が語られますが、イザヤはこの祝福を、イスラエルの最も弱い人たちに対して語りかけています。「主に連なる外国人は言ってはならない。『主はきっと、私たちをその民から切り離される』と。宦官も言ってはならない。『ああ、私は枯れ木だ』と」(3) 外国人とは恐らく、古くからイスラエルに寄留していたアモン人やモアブ人などカナンの人たちかと思われます。宦官(去勢された男性)はイスラエルの恥部に属する人たちでした。彼らはイスラエル社会の弱者として保護されるよう規定されてはいましたが、実際には厄介者であり、はみ出した存在だったのです。申命記にこうあります。「こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない。……アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。……」(23:1-) これはイスラエルの中に市民権を持たないということです。イエスさまの時代、マタイやザアカイのような取税人やらい病人や悪霊に憑かれた人などがユダヤ人社会に受け入れられなかった状況、そして現在、アラブ人がパレスチナに自分の場所を持つことが出来ない状態にも重なってくるではありませんか。イザヤには、そんな彼らの悲しみが痛いほど伝わっていたのでしょう。

 そんな悲しみの歴史を積み重ねてきた外国人や宦官たちが主の民に加えられる、とイザヤは主の祝福のことばを取り次ぎます。「まことに主はこう仰せられる。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる」(4-7)


V 祝福に招かれて

 イザヤの時代だけではなく、捕囚から帰還して再建された第二神殿時代のイスラエルに彼らが加えられた事実は、残念ながらないようです。弱者への配慮という主の民イスラエルの根幹をなすべき取り組みは、現在のイスラエル共和国においても見あたりません。イスラエルはいよいよ頑固に、主の選民という特別な民族たることに固執し、他者への配慮も、主のみとばを担う祭司の民であることにも、意識してなのか、目をつぶってしまったと感じられます。そして、そんな彼らの頑固さにイザヤは預言者として何度も立ち向かってきましたが、ついにさじを投げてしまったものと思われます。もはやイザヤは、民族としてのイスラエルを超えた広い世界で神さまの祝福のメッセージを聞き、それを取り次いでいると聞いていいのではないでしょうか。弱者への祝福も、主のしもべ=イエスさまの福音のところで聞いて欲しいのだと、そのメッセージへの彼の姿勢が伝わってきます。

 きっと、ユダヤ人にとっての弱者・外国人や宦官というのは、私たちのことなのでしょう。このところで、神さまの二つの祝福を聞きたいのですが、弱者としての私たちが、イエスさまの福音を通してその祝福を聞くのだと、まず、そのことを肝に銘じておかなければなりません。二つのこと、その第一は、「わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える」という約束です。宦官たちが「私は枯れ木だ」と嘆いたのは、跡継ぎとなるべき子どもをその手に抱くことができないからであって、それは、イスラエルの中に神さまから、「産めよ。増えよ。地に満てよ」という祝福とともに分与される筈の土地が与えられないことを意味していました。イスラエルの市民権を持つということは、その極めて具体的な祝福を得ることなのです。その市民権がない。現代の私たちにとって、それほどの祝福が見あたるでしょうか。苦労して買った家はそれほどの祝福となってくれるでしょうか。否と言わざるを得ません。大体、嗣業(土地や仕事や生活など人が生きていくための必要一切)が神さまからの祝福であると受け止めることが欠如していますから、自分で代価を支払った(と思っている)家などが自分の祝福になってくれるわけがありません。ところが、決定的にそんな祝福はないのだと絶望している宦官に、「わたしの城壁内にあなたの嗣業を与える」と言われます。それは、神さまの国に私たちの名が刻まれる祝福ではないでしょうか。

 もう一つの祝福は、「わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」というものです。ソロモンが神殿を建て上げたときに、「あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください」(T列王記8:30)と祈った祈りが実ったと言えるでしょう。このところから、教会は祈りの家と覚えられてきました。神さまに祈るのです。いつの日か、顔を合わせて神さまにお話する時がやって来る。教会での祈りはそのひな型にすぎません。しかし、その祈りを神さまが聞いてくださる。イエスさまの十字架を信じる私たちを、神さまがご自分の民として天にその名を刻んでくださったから。そんな神さまの祝福に招かれているのです。どんなに悲痛な叫びも届いていかない。そんな現代に、その幸いを私たちの心に留めようではありませんか。