預言者の系譜
66  イザヤ書・第二部(15)
いざ光の国へ

イザヤ書 55:6−13
ヨハネ  1:1−5
T 神さまに帰る

 私たちをご自分の民に招いてくださる神さまの救い計画が、53章でクライマックスを迎えました。主のしもべの見るも無惨な死は、私たちの罪をその身に背負って赦すためと聞きました。そのしもべの贖罪を語り終えて、イザヤはこのしもべがもたらす祝福を述べ始めます。それはきっと、私たちに、信仰の歩みを勧めるものなのでしょう。54章と55章がこれに当てられていますが、「神さまの民の拡大」(54:1-10)、「神さまの約束・安全保障」(54:11-17)、「救いへの招き」(55:1-5)、「赦しへの招き」(55:6-13)と4つに区分される中の、今朝はその第4項・最後です。

 ここは「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる」(6-7)と始まりますが、「呼び求めよ」「帰れ」という呼びかけは、第3項で「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる」(3)と言われた神さまの招きに呼応しているようです。それは、神さまのみことば(11)を求め、みことばに聞き従って、神さまに帰る信仰の歩みが言われていると理解しなくてはなりません。それはきっと、イザヤ自身が志した歩みではなかったかと思われますが、預言者は神さまのことばを取り次ぎながら、自分自身がそれに聞かなければならないと強く感じているようです。「主に帰れ」とは、彼のその信仰告白が溢れ出たものではないでしょうか。

 その思いは、「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ」とあることばに凝縮されているようです。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに呼び求めよ」という呼びかけは、そんな悪者や不法者に向かって言われています。神さまの熱い目は彼らに注がれているのです。「お会いできる間に」「近くにおられるうちに」と、求める期間が限定されているようですが、それはきっと、神さまがそんな者たちのすぐ近くにいらっしゃると強調しているのでしょう。悪者や不法者とは、神さまの恩寵が注がれている者・イザヤ自身のことを言っていると聞こえるではありませんか。そのイザヤは私たち自身でもあるのです。そして、これこそ、この預言者のメッセージであると聞こえてくるのです。もし私たちが、注がれている神さまの恵みを受け取るならば、悪者・不法者である私たちが赦され、神さまの民に数えられるのです。その祝福を頂きたいですね。


U 神さまの高さに

 そして預言者は、再び、神さまのことばを書き留めます。「わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、わたしの道は、あなたがたの道とは異なるからだ。−主の御告げ− 天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(8)

 ここで、ことさらに神さまは、ご自分の高さを強調しておられますが、私たちは神さまのその「高い」ところを想像すらできません。それはまさに神さまの領域なのです。それが繰り返し語られているのは、その神さまの高い領域に私たちを招いてくださるということなのでしょう。それは神さまから私たちへの祝福ですが、その祝福が54-55章にいくつもいくつも語られています。「あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とする」(3)「わたしはほんのしばらくの間あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める」(7)「あなたを怒らず、あなたを責めない」(9)などなど。そして「雨や雲が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える」(10)と言われます。種がどのように実を結ぶのか、よくよく考えますと、いかにも不思議なことです。小さな種でどれも同じに見えるのに、ブドウの種はブドウの実を結び、無花果の種は無花果の実を結び、桜の種は大木に育って美しい桜の花を咲かせ、小さな芥子粒さえもその機能を働かせています。空から雨や雪が降り、地を潤し、そしてそんな小さな種が育っていくのです。自然界のその不思議は、神さまだけがなし得ることでしょう。その小さな種がパンになって私たちを養い、私たちはそんな神さまの不思議に生かされているのです。その不思議の前では、金持ちも貧乏人もありません。その不思議の前で、人は謙遜でありたいですね。私たちのいのち自体も神さまの不思議の中にあるのですから。


V いざ光の国へ

 そして、これが神さまからの究極の祝福であると語られたのが、12-13節でしょう。無理のない訳と思いますので、新共同訳から紹介します。「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、野の木々も、手をたたく。茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生えよう。これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることがない」

 イザヤは、これまでにも何度かこれと似た表現で神さまの祝福に言及してきました(11:6-、29:17、35:1-など)。そしてそれは、彼のもう一つのメッセージ、「その日になると、ぶどう千株のある、銀千枚に値する地所もみな、いばらとおどろのものになる」(7:23など)とあるような、罪ある者たちへの神さまの裁きの描写と一対をなしています。その一方を知らないでは、神さまの祝福を聞くことは出来ません。自然界は、きっと、喜びも悲しみも神さまの声を素直に告げているのでしょう。茨やおどろは鋭く長いとげを持つ雑草で、荒れ地に多く繁殖し、乾期には藪になったまま枯れてしまいます。そして、枯れると一層そのとげが堅くなり、そのやぶに人が踏み込んで行くことは出来ません。かつてエルサレムで、黄金の門を間近にみようと近づいたところで、そのやぶに入り込んだことがあります。鋭いとげに遮られ、ついに黄金の門に触れることが出来ませんでした。ローマの兵隊たちはそんな茨で冠を作り、イエスさまにかぶせました。その鋭いとげに傷つけられたイエスさまの痛みはどんなであったかと、胸締め付けられる思いがいたします。いばらもおどろも、イエスさまを十字架につけなければならなかった、私たちの罪を言っているのではないでしょうか。

 しかし、そんな人を寄せ付けない荒れ地のやぶに、いばらやおどろに代わって糸杉やミルトスが生えると言われるのです。糸杉はレバノンから産出される建築材として有名なものですし、ミルトスは香りの高い葉や花をつけて祝いの木と呼ばれるものです。神さまによる裁きの様子がイザヤ書のほとんど最初からずっと厳しい調子で続いていましたから、今、主のしもべによる救いの業が完成されて、その喜びが一気に弾けたのではないでしょうか。12-13節が実に生き生きしています。

 ところで、「出で立ち」「導かれて行く」とは「どこから」「どこへ」なのでしょうか。イザヤは、「捕囚の地バビロンから祖国イスラエルに」と言っているようです。それはまだ140-150年ほど先のことでしたが、彼はその出来事を南王国滅亡・バビロン捕囚とともに神さまの出来事として見つめていました。そして、バビロン捕囚はイスラエルの罪のためでしたから、預言者は、罪の中から神さまの国へ「出で立ち」「導かれて行く」〈救い〉を言っていると理解していいのではないでしょうか。そうしますと、12-13節は神さまの国の光景と映ってきます。そして、その救いは必ず実現すると神さまの約束があるのです。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」(11) 神さまの約束を実現に至らせるこの「ことば」は、人格を有しているのです。その名は「主のしもべ!」「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。……この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:1-5)とあるお方、イエスさまを彷彿とさせてくれるではありませんか。