預言者の系譜
65  イザヤ書・第二部(14)
十字架に我らの罪を

イザヤ書 53:7−12
                                ヘブル書 9:24−28
T 死を選び抜いて

 53章の前半(1-6)でイザヤは、「私たちの聞いたことをだれが信じたか」(1)と問い掛けていますが、そこから、それは「私たちではなかったか」と、彼自身の信仰告白が聞こえてくるようです。その前半は、恐らくイザヤを含む「私たち」が主のしもべを苦難に追いやったのだという、鋭く深い痛みが中心なのでしょう。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(6)とあります。そこには、現代の私たちも関与しているという、その告白が問われていると聞かなくてはなりません。

 ところが、53章後半に入りますと、一転してこの「私たち」がいなくなります。イザヤは、「彼・主のしもべ」を証言することに全力を傾けているのです。少し分量が多いのですが、ここは細切れにはしないで、イザヤのメッセージの核心にせまってみたいと願いました。

 「彼は痛めつけられたが、それを忍んで口を開かず、ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(7)と始まります。苦難の場で、彼は断固口を開きません。恐らく、「小羊のように」や「雌羊のように」は、単なるたとえではないでしょう。イザヤは文学者ではないのです。むしろ、ものごとを冷静に見つめようとするその姿勢は、社会学や心理学をやっている研究者のようにも見え、そのような目でしもべを洞察しようとしているのでしょう。彼はしもべの死を、美しく描こうなどとは思ってもいません。きっと彼は、神殿で祭壇に献げられる羊などをたくさん見ていました。その動物たちは、人々の罪の身代わりとして、黙々と死んでいきました。彼らは選ばれた段階で、すでに死ぬことが決定したのです。イザヤはこのしもべの姿を、彼らに重ね合わせているのでしょう。しもべの苦難は痛みだけで終わるものではなく、かならず死ななければならなかったのです。しかもその死は、神さまの前に献げられる尊い贖いの供え物でした。主のしもべはそれをよくよく承知していましたから、見苦しい死へのあがきを避け、いかにも従容として死への道を突き進んでいくのです。その様子は、ピラトに尋問された時のイエスさまに重なってきます。(ピラトが驚くほど)「一言もお答えにならなかった」(マタイ27:14)というその沈黙には、断固として死を選び抜いていくという、強い決意が感じられるではありませんか。


U その死の意味を

 しかし、そのように沈黙しているしもべに代わって、イザヤは彼の死の意味を伝えようと決意しているのでしょう。「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが」(8) 「取り去られた」は、「死」とりわけ「死刑」が意味されていると考えられていますが、きっとその通りでしょう。「しいたげ」と「さばき」は、「暴虐なさばき」(口語訳)「捕らえられ、裁きを受けて」(新共同訳)のほうが分かりやすいでしょう。「しいたげ」は弾圧的拘束なのです。「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに」(新共同訳)とイザヤは、しもべが極めて不当な裁判で死刑判決を受けたと証言しているのです。イザヤの時代にも、そのような不当な裁判が頻繁に行われていたようです。彼ら裁判官たち(王族や貴族といった指導者たち)は、自分たちの利益を損なう人物として、このしもべを悪人と断定し、死刑だけではなく、その葬るべき墓も「悪者どもとともに」と設定していたのでしょう。ところがイザヤは、彼が「富む者」とともに葬られると証言しています。これは、イエスさま葬りの記事と見事に一致しているではありませんか。

 しかし私たちは極めて鈍感で、このしもべの苦痛に満ちた死の意味を考えようともしません。「彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から断たれたことを」とありますが、「だれが」とイザヤは1節の思いを繰り返し、彼自身の信仰告白をここで強調しているようです。「彼の時代」とは、現代の私たちにまで続く時代と受け止めなければならないでしょう。「わたしの民」とは、しもべの死によって罪を贖われた、現代までのすべての聖徒たちのことと言っていいでしょう。実に、私たちが彼を死に追いやりました。罪の告白がなければ、救い主への信仰もむなしいことに、もっともっと敏感でいたいものです。


V 十字架に我らの罪を

 悪者どもの墓から富む者の墓に、しかし、彼は死ななければなりません。そして、そうなさったのは実は、神さまご自身でした。しもべの死は人々の画策によるものでしたが、そのご計画は神さまから始まっていたのです。「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」(10)とあります。「罪過のためのいけにえ」は、レビ記にある神さまとイスラエルの契約のことでしょう。それは罪祭や素祭など5つあり、イスラエルは、祭壇に動物の犠牲を献げることで神さまの民と確認されるのですが、やがて、それが神殿礼拝の原型になっていきます。そこにこうあります。「人が不実なことを行ない、あやまって主の聖なるものに対して罪を犯したときは、その罪過のために、羊の群から雄羊一頭……を取って、主のもとに連れて来る。祭司は、罪過のためのいけにえの雄羊で、彼のために贖いをしなければならない。その人は赦される」(5:14-6:7)この犠牲は何回も繰り返され、次第にその意味を忘れ、形式的になってきました。人間というもの、私たちも含めてどうしようもありませんね。そこで神さまは、たった一回だけの、それも、永遠に有効な贖罪を計画されたのです。このしもべはそのために立てられました。

 このしもべは、まるで、それが自分の立てた計画でもあるかのように、自分から進んでその計画・苦難の死を遂行していきます。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(11)とこれは、しもべが死んだ後にだけ言い得る表現でしょう。イザヤの驚きが伝わってくるようです。もはや預言者は、このしもべを一介の人間とは見ていません。まさに神さまとともに立っているお方、もしかしたら、パウロなどがイエスさまについて証言しているように、神さまご自身であると感じているのかも知れません。そして、預言者イザヤのことばとしてではなく、神さまがお語りになったものとして、その証言が始まります。「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」(11-12)

 「正しいしもべ」、その形容詞はまさに神さまだけが持つものでしょう。彼は「自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たち(それは私たち自身である)とともに数えられた」のですが、決して死が終わりではありませんでした。奇妙な言い方ですが、死んだのにずっと生き続け、死から彼の栄光が始まっていくのです。「末長く子孫を見る」というのも、また、「その知識(イエスさまを信じる信仰と読むことができる)によって多くの人を義とする」というのもそうでしょう。ここにイエスさまのよみがえりが暗示されていると考える人もいます。「恐れるな。わたしは生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている」(黙示録1:17-18)と、イエスさまのことばが重なってきます。そして預言者は、しもべの歌をこのことばで締めくくります。「彼は多くの人たちの罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」 このお方は、まさに十字架に私たちの罪を贖われたイエスさまであると、心からの信仰を告白していきたいと思います。