預言者の系譜
64  イザヤ・第二部(13)
キリストの打ち傷のゆえに

イザヤ書 53:1−6
Tペテロ 2:22−25
T 若枝のように

 「主のしもべ」第四歌のクライマックスは、「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を、誰に示されたことがあろうか」(53:1・新共同訳)と、イザヤ自身ですら信じられないほどの出来事であるという証言から始まります。「主の御腕」とは神さまの力のことですが、その力に動かされなければ、私たちは決して神さまの救いの出来事に出会うことはありません。イザヤ自身も、その力に動かされてこの証言になったということなのでしょう。「誰に示されたか」、幸いにも、それが私たちにであったことに、驚きを覚えながらこのところを聞いていきたいと願います。

 「彼は若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った」(2)と続きますが、これは「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」(イザヤ11:1)とある状景につながっています。不思議なことですが、この主のしもべはイザヤのメッセージの中心と思われますが、非常に唐突に語られています。もちろんその背景には、「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創世記3:21)とある原始福音や、旧約各書にちりばめられている神さまの救いのご計画があるのですが、それはまだミステリーに包まれています。その全容が、イザヤの主のしもべに至ってようやく見え始めてくるのです。「エッサイの根株から」とは、ダビデ王朝が途絶え、イスラエルの希望が全く見えなくなったところから始まるということなのでしょう。イスラエルにメシヤ信仰が燃え上がっていくのは、そんな彼らの希望が途絶えた中間時代でした。まさに主のしもべは、切り倒された木の根株に生え出た若枝だったのです。それも、まるで現代にも似た砂漠のように、人の心が渇ききった時代に。主のしもべは、まさにイエスさまに重なってきます。

 しかし、この若枝は、人々の希望だったのに、人々からは認められず、決して賞賛されることのない道を歩み始めます。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」(2-3)とありますが、その根株ダビデが「姿の美しい人」と呼ばれたのに対し、彼は「姿もなく」と言われます。徹底的に「その顔だちはそこなわれて」(52:14)無惨な様相を呈していました。これは苦難のまっただ中での様子なのでしょう。十字架のそばで、一般民衆ばかりか、十字架につけられた強盗たちまで、祭司、律法学者、長老たちといっしょになって、イエスさまをののしっている状景が浮かんでくるではありませんか。


U 私たちの病を負い


 しかも、彼は「悲しみの人で病を知って」いました。それは、本来的に彼が病弱だったということではなく、私たちの病をご自分の中で痛みとして受け止めておられたということでしょう。

 預言者はそのことを「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(4)と言い、マタイはこう証言しています。「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜいみもとに連れて来た。そこでイエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人をみなお直しになった。これは預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った』」(マタイ8:16-17)病気ばかりではありません。聖書で「病」はしばしば「罪」の代名詞とされていますが、彼は私たちの罪をその身に負って苦しんだと言っていいでしょう。それなのに、愚かにも私たちはそのことを認めようとせず、ひたすらののしっています。「もしあなたが神の子なら、十字架から降りて来て、自分と私たちを救ってみろ」と。「だが私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと」(4)と、イザヤも痛恨の思いを込めて語っている通りです。イザヤの時代も、そしてイエスさまの時代も、そんな得手勝手な風潮が広がっている時代でした。彼が悲しみの人であったとは、その辺りのことも指しているのではないかと思われます。そして、彼らよりもいっそう神さまからそっぽを向き、自己中心ばかりが広がっている現代に、イエスさまの悲しみは一層深くなっているのではないでしょうか。イエスさまの悲しみを押し広げているのは、実は私たち自身であると、肝に銘じておきたいですね。


V キリストの打ち傷のゆえに

 そして預言者は、53章前半のクライマックスを語り始めます。いくつものメッセージが重なり合って、まるで壮大なシンホニーのようです。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(5-6) 中心主題は主のしもべの「贖罪」なのでしょう。その縦糸に「私たちのそむきの罪」「刺し通され」「私たちの咎」「彼への懲らしめ」「私たちに平安を」「彼の打ち傷」「私たちはいやされた」などなどの横糸が……。とてもとてもその全部を取り上げることは出来ませんが、いくつかのブロックにまとめながら見ていきましょう。

 第1は私たちの罪に関するところです。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分かってな道に向かっていった」とあります。「そむきの罪」も「咎」(罪責)もここにまとめられています。羊が自分勝手なところに行ってしまうのは、羊飼いがいないためでしょう。イスラエルには現代でも、羊飼いが黒や茶やぶちなどの羊の群を追っている風景が街中で日常的に見られますが、イザヤはいつもそんな光景を見ていたものと思われます。羊は集団で行動する習性がありますので、彼が先頭の羊を誘導するだけで多数の羊を安全にまとめることができるのですが、反対に羊飼いに誘導されない先頭の羊が草を食むことに夢中で崖っぷちに行っても、後についていく集団はそれが安全なのか危険なのか全く分かりません。ただ目先の「食べる」ことにしか目が向いていないのです。罪というのは、羊飼い(神さま)を失い、知らず知らずに破滅や死を招いているのですが、それは、イザヤ時代のイスラエルだけではなく、現代人の私たちが抱えている最大の問題点ではないかと思われます。

 第2のブロックは「贖罪」ということですが、このブロックには「刺し通され」「砕かれた」「懲らしめ」「打ち傷」などが上げられます。特に先の2つのことばは、極めて強い表現のものを選んでいるようです。きっと預言者は、贖罪が主のしもべに加えられた残忍な苦痛に満ちた死を伴っていると強調しているようです。そしてそれは、「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」という、まるでしもべの苦痛をイザヤ自身が共有しているかのような、彼の苦痛に満ちた証言につながっていきます。罪が死に至るものであるという宣告に、主のしもべはご自分のいのちをもって、しかも単なる病死ではない、あらゆる辱めと苦痛の果てに迎えた死によって対応したということなのでしょうか。

 第3のブロックは、私たちの「平安」「いやし」です。ここに、罪を犯し続ける私たちへの神さまの審判が隠されていると感じますが、平安もいやしもない、現代という時代の行き先が浮き上がってくるようです。しかし、その失われた平安といやしのために、主のしもべが死んでくださいました。現代の足りないところは、そのお方の死を、まるで人ごとのように聞き流していることではないでしょうか。イザヤはこのテキストに、このメッセージを「あなた自身のこととして」聞いて欲しいという願いを込めているようです。このところ(1-6)だけで、他に例がないほどの頻度で、「彼」(10回・新改訳)と「私たち」(13回・同)が対応するかのように繰り返されています。イザヤは、その信仰から沸き上がった告白として、これを記したのでしょう。それは、現代の私たちの思いでもなければなりません。私たちの罪が救い主をこれほどまでの深い苦痛の死に追いやったのだと。