預言者の系譜
63  イザヤ書・第二部(12)
真心から神さまに

イザヤ書 52:13−15
ヘブル書 10:19−25
T その苦難の姿は

 52:1-12でイザヤは、「あなたがたは神さまの救いを見るのだから、ともに喜びの賛歌を歌おうではないか」と証言しました。その救い、イザヤは罪からの救いを見つめているようですが、その救いを詳しく語ろうとして、「しもべの歌・第四歌」に入ってきます。52:13−53:12ですが、何回かに分けて見ていくことにしましょう。今朝は52:1-3です。

 この箇所は「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる」(52:13)と始まります。パウロはこの様子を「神はキリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(ピリピ2:9)と証言しました。イザヤは神さまの啓示のうちに、パウロと同じ方を見ているのでしょう。そして、まさに「しもべの高挙」と呼ばれるにふさわしい、輝かしいしもべの姿を描き出しているのですが、神さまの救いを喜ぶ私たちに、まず最初にその栄光の姿を知らせようとしたのは、その喜びをともに分かち合いたいと願ったイザヤの、信仰告白ではなかったかと思われます。パウロはこう続けます。「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白し、父なる神がほめたたえられるためです」(ピリピ2:10-11) そのような栄光のお方が達成しようとしている救いですから、私たちは心から喜びの賛歌を歌いつつ、そのお方の前にひれ伏し、「信じます」と告白していくのです。そんな礼拝の、もっとも基本的な姿勢を覚えていこうではありませんか。

 しかし、その高挙を喜ぶには、彼のすさまじいばかりの苦難を聞かなくてはなりません。それは53章に語られており、ここではまだほんの序曲にすぎませんが、「多くの者があなたを見て驚いたように、(そのように)その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた」(14)と私たちへの注意をうながします。彼の苦難は私たちのためであると聞かなければなりません。「あなたを見て驚いたように」とあります。翻訳の多くは「彼を見て」と訳していますが、原典は恐らく「あなた」でしょう。それは52:1に「さめよ。さめよ。力をまとえシオン。あなたの美しい衣を着よ」とある「あなた」ではないかと思われます。バビロニヤの軍隊に徹底的に破壊され、不思議にもエズラの時代に再建され、AD70年に再びローマによって破壊されたエルサレム。そのわずかに残る「嘆きの壁」だけが、かつての美しい神殿の存在を今に伝えていますが、それはき、私たちの罪にまみれた姿を写し出しているのでしょう。


U 私たちの罪の姿を

 「その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた」(14) 新改訳聖書では省略されていますが、この最初には〈そのように〉ということばがあります。しもべの姿が「あなた」(私たち?)の姿になぞらえられているのです。主のしもべと私たち、とても比べることはできませんが、ここでは「人のようではなく」と言われています。それほど、しもべの苦難の姿は無惨だったのでしょう。それをあえて比べている、この預言者の意図を想像してみました。どんなに苦労を重ねても、私たちの苦難はしもべの苦難とは比べものにならないだろうと思いますが、しかし、私たちの姿を罪に限定しますと、しもべの姿は私たちに重なってくるのです。53章には、しもべの苦難が「私たちの罪のためであった」と繰り返し語られています。私たちの罪の姿がそれほどに醜いのだと、まずそのことに目を向ける必要があるようです。

 この「しもべの姿」に合致すると思われる記事があります。よみがえりのイエスさまがエマオ途上の2人の弟子にお会いした記事(ルカ24:13-35)です。数時間を一緒に過ごしながら、彼らはそのお方がイエスさまだとは分かりませんでした。それは、イエスさまのご様子があまりにも変わっていたためと思われます。十字架の苦難を通った末の変わりようと考えますと、イザヤのこの証言が重なってくる気がするのです。そして、イエスさまだと分からなかった弟子たちには、まだ自分の罪の重さや醜さが充分理解されていなかったのです。自分たちの本当の姿が分かっていなかったと言っていいでしょう。そしてそれは、まさに私たちの姿そのものではないかと感じられます。醜さに気がつくのは、十字架のイエスさまに出会って初めてということなのでしょう。そんな悟るに遅い私たちのためでしたが、しもべの姿は徹底的にそこなわれ、無惨な様相を呈していました。それが、唯一の父なる神さまの前に捧げる彼の苦難・苦難の姿であったということです。


V 真心から神さまに

 その凄惨な姿は、多くの人たちを沈黙させました。「そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつむぐ。彼らはまだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ」(15) それは、そのしもべの姿が、人間の愚かな議論の枠をはるかに超えていたからでしょう。人間の愚かな議論、「神など存在しない」「イエス・キリストは神ではない」「所詮キリスト教も数ある宗教の一つ」「聖書は神話」などなど、昔から繰り返し主張されてきたことですが、現在はその声がピークに達したかのように大きくなっています。しかし、もし私たちが真摯な気持ちで苦難のしもべ、十字架のイエスさまの前に立つなら、その姿に心打たれないではおれないでしょう。「王たちは彼の前で口をつぐむ」とは、そんな人たちのことを言っているのかも知れません。王たちとイザヤは、このしもべが歴史舞台に登場してきた時に、その前で沈黙する王たちがいると言っているようです。52:7に「あなたの神が王になる」とありますが、王たちはそのことばを聞いて反応するのでしょう。現代に至るまで王たちは、自分の王国を守り拡大するための戦いに明け暮れていました。「神さまが王となる」(神さまが支配する)と聞いて、敏感になるのは当然です。ヘロデがそうでした。コンスタンティヌスがそうでした。しかし、その王は「王の王」(the King)ですから、諸王の争いを収める平和の存在であり、戦いを経ずに王となると言われるのです。王たちがその動向に注視したとしても、不思議ありません。しかし、現代に至るまで、主のしもべの凄惨な姿の前で沈黙した王たちは、ごく一部でしかありませんでした。きっと、依然として、このしもべを遣わして救いを実現しようとされる神さまの宣言には耳を傾けずに、権力闘争に明け暮れている王たち、これが私たち現代人の姿かと思われます。しかし、私たちの救いを願う主のしもべの苦難の姿に、声を失うほどの感性をもっていたいではありませんか。

 「驚かす」とあります。前後のつながりが容易なためか、大半の訳はそうなっているのですが、むしろ不自然に見えても「後には彼多くの国民に注がん」(文語訳)のように「注ぐ」と訳すほうが原典に忠実なようです。先の「あなた」にしても、イザヤはあえて文脈に逆らうような不自然なことば使いをしているわけですから。「注ぐ」とは、本来、水などを注ぐという意味ですが、祭司が神殿で祭壇に動物の血を注いで民の贖いをした、イスラエル宗教の中心をイメージしているのでしょう。イザヤ自身が祭司でした。主のしもべが自分の血を注ぐ(それは彼が死ぬことを意味している)、それが彼の顔かたちが変わるほどの苦難になったと、預言者は証言しているのです。「王たち」には、人間の営みの世界的広がりが含まれると指摘する人がいますが、その通りでしょう。主のしもべの苦難と死は、まさに王たちに、地の果てまで聞かれます。狭くなった世界の100%とは言えないまでも、こんな神戸の片隅にまでも聞かれているのです。ただ、それをどう受け止めるかが問われています。聞きたいですね。「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブル10:22)と。