預言者の系譜
62  イザヤ書・第二部(11)
走りぬく信仰を

イザヤ書 52:1−12
ヘブル書 12:1−3
T 美しい衣を

 今朝のこのテキストは、「しもべの歌」第四歌の序文のように感じました。しもべの歌クライマックスの第四歌(52:13−53:12)に入る前に、このところから聞いていきたいと思います。

 少し煩雑になりますが、この箇所は51章と連動していますので、まずその辺りの文脈を簡単にみておきましょう。51:1に「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け」とあり、1-8節に神さまから私たちへの約束が語られます。その神さまのことばにイスラエルが応答します。「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ」と、51:9-10です。11節から52:6までは再び神さまからイスラエルへの応答・宣言が語られます。それはイスラエルの祈り・叫びに答えられたものでしょう。そして52:7-12の「喜びの賛歌」は、預言者自身の証言ではと思われます。この喜びは「地の果て果てまでもみな、私たちの神の救いを見る」(52:10)ことの喜びですが、その救いは「しもべの歌・第四歌」にきわめて具体的に語られるのです。神さまの宣言・勧告(52:1-6)と預言者の証言(52:7-12)が重なる今朝のテキストは、本当は51:1から取り上げなくてはならないのでしょうが、スケールが大きすぎますので、少し縮小しました。52:1からです。

 「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン」(52:1) これは、今紹介した51:9「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ」と見事に重なっています。きっと、イスラエルが神さまに「さめよ。さめよ」と言っているのは、主の約束が遅れていることへのいらだちで、それが祈り、叫びとなっています。ところが、神さまの「さめよ。さめよ」には、「眠っているのはわたしではない。おまえたちではないか」というそんな思いが込められているようです。ですから、同じことばで神さまを信頼することを求めたと感じられます。「眠っている」とは、神さまへの信頼を失っている状態と考ていいでしょう。神さまへの信頼を失っている時、イスラエルは力を持ちません。現代のように、核などの強力な武器を持ちながら、願う平和を手に入れることが出来ない。「力を持たない」とは、そんな状態かと思われます。「あなたの美しい衣を着よ」(1)とありますが、「まとえ」と言われる「力」を「美しい衣」と言い換えているのは、血で汚れた武装などではない、衣にこそ力があるという主張ではないでしょうか。3節に「ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け」(3)とあります。ちりとは罪のこと、その罪を精算した美しい衣をまとうことこそ、力・神さまの力をまとうことなのでしょう。罪をどのように精算していくのか、それが預言者の見つめる最大の課題として浮かび上がってきます。


U 神さまの民に?

 ここは「シオン・エルサレム」への語りかけのように聞こえますが、きっとそのエルサレムは、歴史上の地理的エルサレムというより、私たちの内面にあるエルサレムなのでしょう。以前からイザヤは、現実のイスラエル民族を飛び越え、異邦人の中に、神さまに贖われた者たち・新しいイスラエルを見ていました。「エルサレム」とはその「新しいイスラエル」に他なりません。ですから、そこには、政治的宗教的回復以上の、神さまの救いが語られていると聞こえてくるのです。イザヤが見つめている救いは、現代の私たちにも……、と聞かなければなりません。

 「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される」(3) 50:1で神さまは〈わたしはあなたがたを売った覚えはない〉と言われました。「わたしがあなたがたを売ったというなら。見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られたのだ」とここには、「自分の罪によって主から離れていったのだ」という明確な主張が見られますが、神さまは「ただで売られた」者たちの所有権を主張して、合法的に取り返すことを、「金を払わずに買い戻す」「贖う」と宣言されたのです。きっと、かつてエジプトの寄留民であったイスラエルが不当にも奴隷とされたことや、北イスラエル王国のアッシリヤによる捕囚の出来事が引き合いに出されたこと(4)も、そこから贖い出してくださった神さまのことを思い出しなさいと、注意をうながしているのでしょう。そして、その苦難は、バビロン捕囚という出来事に続いていくという、警告なのかも知れません。「もしあなたがたが、そのような神さまのご計画にそっぽを向いているなら、わたしの民に数えられることはない」という宣言にも聞こえてきます。「あなたはどちらの民になろうとしているのか。罪を精算して神さまの民になるのか。それとも、神さまをあなどり自分勝手な生き方をする者になるのか」 ここでイザヤは、その2種類の民を描いているようです。それは、現代そのものではないでしょうか。目を覚まして神さまのなさることに目を向けるなら、「ここにわたしがいる」と言われる神さまの存在を身近に受け止めることが出来るでしょう。


V 走りぬく信仰を

 神さまが救いの主であると受け止めながら、そのお方をすぐ近くにいらっしゃると告白する者たちに、預言者が喜びの賛歌を「ともに歌おうではないか」と勧める「しもべの歌・第四歌」序曲が始まります。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、『あなたの神は王となられた』と、シオンに向かって呼ばわる」(7・新共同訳) 山々は、当時ニュースが高台から大声で伝えられたことを言います。それがいかにも良い知らせだったので、伝達者までもが喜ばれるのでしょう。「聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ」(8)と。「神が王となる」「主がシオンに帰ってくる」とこれは、メシアを指しています。メシアが王としてエルサレムに入って来られるのを、城壁上の見張り人たちが目撃するというのです。若いロバに乗られてエルサレムに入城された、イエスさまの記事(マタイ21章)が思い浮かぶではありませんか。

 「エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る」(9-10) 「エルサレムの廃墟」、BC586年のバビロンのエルサレム破壊は、確かに廃墟と形容されるほどのものでしたが、疑問が残ります。役に立たなくなった城壁になおも「見張り人たち」が必要だったとは思われません。見張り人たちは、まだ城壁が健在だった時代を物語っています。イザヤはこの廃墟をその時代の人たちの内面性に見ているのでしょう。そして、その廃墟は、現代の私たちの内面性にも通じていると聞こえてきます。そうしますと、「地の果て果てもみな、私たちの主の救いを見る」という状景は、イエスさまの福音が伝えられるようになった教会時代に符合しているように思われます。しかしイザヤは、恐らくもっともっと先の時代を見つめているのでしょう。

 11-12節に「去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て身をきよめよ。主の器をになう者たち。あなたがたはあわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ」とあるところは、出エジプトの状景に重ね合わせた神さまの民の脱出劇ですが、どこからどこへの脱出なのか、ある人は〈罪から解放された者が、救いの道を神の都に向かって歩む〉姿であろうと想像しています。きっとその通りなのでしょう。それは終末の光景ではありませんか。「あわてて出なくてもよい」とあります。十字架の出来事の折り、王としてエルサレム入城されたイエスさまは、終末時に、開かれた黄金の門をもう一度王として堂々と入って来られます(エゼキエル44:2)。そして、信仰者たちもそのあとについていくのです。イザヤは、その光景を見つめているのではと思われます。きっと、そんな希望の終末は、イエスさまの十字架から始まっているのでしょう。イエスさまを信じる信仰は、今もその歩みの途中なのです。主から慰められつつ、完成を目指して歩み続けたいですね。