預言者の系譜
60  イザヤ書・第二部(9)
神さまの輝きは

イザヤ書 49:1−6(2)
使徒   26:17−23
T 祭司の国イスラエル

 前回は49:1-6から、預言者の2つのメッセージを聞きました。1つは、神さまがしもべの名を呼ばれたこと自体、そこに、私たちを罪から呼び出そうとする神さまの切々たる思いが込められていること、そして、もう1つ、そのしもべが神さまの力と正しさを放棄し、苦難の道を辿りつつ私たちの救いになってくださるということでした。苦難の序曲、これがしもべの歌第二歌です。今朝は、ここに語られるもう2つのメッセージを聞いていきましょう。

 1番目は、「あなたはわたしのしもべ、イスラエル」(3)と言われているところからです。「イスラエル」とありますが、これは歴史上の民族イスラエル(ユダヤ人と言ったほうがいいでしょう)を指しているのではなく、このしもべ自身が「イスラエル」と呼ばれているのです。なぜイスラエルなのか、それには、ユダヤ人と神さまとの関係を知っておく必要があります。ご存じのように、彼らはAD70年にローマと衝突し(大叛乱の時代と呼ばれる)、国を失って2000年近くもの間、放浪の民として世界中に散らされていましたが、不思議と民族崩壊もせず、1948年という最近世になって、昔と同じパレスチナに、イスラエル共和国を建てたのです。これは歴史上類を見ない出来事でした。それは彼らが、「神さまの選びの民」としての誇りをもって、この放浪の2000年を生き抜いてきたために他なりません。彼らにとっての世界民族は、「選民」と「異邦人」の2種類でした。異邦人とは、外国人ではなく、ユダヤ人以外の全民族を指すのです。それは、神さまから遠く離れた、神さまを知らない民という意味をもっています。彼らユダヤ人は、そんな異邦人を神さまのもとに導く祭司の国として選ばれました。彼らが「神さまの選民」と呼ばれる理由はそこにあります。出エジプト記にはこうあります。「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる民になる」(19:6)

 ところが、彼らユダヤ人は、その祭司の務めを果たさず、ただ選びの民という意味を失った誇りにしがみついたまま、国を失ってしまいました。再建されたイスラエル共和国も、いたづらに争いを繰り返すばかりで、神さまが望んだ「祭司の国」からは遠く離れています。その、彼らが見失ってしまった祭司の国イスラエルという使命を、このしもべが引き継ぎました。


U 異邦人の光として

 これが、このしもべが「あなたはイスラエル」と呼ばれた理由です。しもべは「ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」(6)という、その使命のために立てられたお方でした。ここに言われるヤコブとイスラエルは、歴史上の民族ユダヤ人を指していますが、「帰らせる」とあり、それは恐らく、やがて彼らに襲いかかってくるバビロン捕囚からの帰還を指しているのでしょう。依然として神さまは、彼らのことを心にかけておられるのです。それが神さまの誠実なのでしょう。彼らがどんなに不誠実であっても、いや、不誠実な彼らだからこそ、救いが一層必要なのかと思います。そしてそれは、そのまま私たちに重なってくるではありませんか。

 ユダヤ人が神さまに対して不誠実だったと、私たちが彼らをなじることは出来ません。不誠実は不信仰(神さまから遠く離れて神さまを認めることができず、結果、神さまを恐れる心を失い、自己中心の世界を築き上げ、高慢や欲望に走ってしまった在り方)と言い換えることが出来き、異邦人の私たちは、彼ら以上に神さまから遠く離れた者でした。そして、私たち現代人の不信仰は目にあまるものがあり、神学者ですら「神は死んだ」と嘯いた時期があったほどです。罪とは「的をはずす」ことですが、神さまに創造され、本来、神さまに向かわなければならない私たちの心を、「現代的」という名の、物に囲まれた利便性と欲望に明け渡してしまったのです。お金が神さまの座を占めるようになった結果、さまざまなひずみが生まれ、犯罪も事故も災害(人災)も格段に多くなってきました。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」(マタイ24:12)とあるイエスさまのことばは、終末の様子を物語っていますが、現代はその状況に限りなく近づいていると言えそうです。

 そのような罪にまみれた私たち異邦人を、神さまのもとに引き戻そうと、このしもべが立てられました。彼は、古くから祭司・贖う者・仲保者と呼ばれてきた、神的人物・メシアなのでしょう。それはまさに、十字架のイエスさまそのものではありませんか。「あなたはわたしのしもべイスラエル」と証言したイザヤのそれは、そのお方を待ち望む彼の信仰告白と言えるのではないでしょうか。


V 神さまの輝きは

 もう一つ、ここに語られるメッセージを聞いていきたいのです。「わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす」(3)とあるところからです。これを詳しく補足しているのが、「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」(6)なのでしょう。

 30-40年ほど前になるでしょうか。かつてイザヤは、「異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(9:1-2)、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」(9:6)と語り、インマヌエルと呼ばれる方(メシヤ)のお生まれを証言したのですが、彼は今、そのことを思い出しているのでしょうか。

 その時代、南ユダ王国は、シリヤ・エフライム連合軍の侵攻を何とかくい止めようと、その脅威に、アハズ王のもとアッシリヤと同盟を結ぼうとしていました。そのアッシリヤがアハズに貢ぎ物を要求してきます。南王国は次第に危機的状況に追い詰められ、預言者は「(神さまに信頼して)静かにしていなさい」(イザヤ7:4)と王に進言しますが、頼むべきお方は神さまでしたのに、王はそれを聞こうとしません。そして、その不信仰ぶりが人々の間にも蔓延していました。北王国はすでに滅亡していましたが、それは、この南王国と同じように、神さまを見失って正義から遠く離れた歩みをしていたからです。そのガリラヤと同じ暗闇が、今や南王国にも訪れようとしています。それから30-40年ほど経って、この第二部執筆最中にイザヤは、南王国だけでなく、その暗闇が世界中に蔓延していくのを感じているのでしょう。しかも、ものすごいスピードで暗闇化していくそれは、現代も全く同じと感じられてなりません。イザヤは(そして、他の預言者たちも)諸外国、エジプト、ツロ(レバノン)、タルシシュ(スペイン)、ダマスコ(シリヤ)といった国々の罪を告発し、その国々が神さまに全く目を向けていないことに対し、鋭い警告を語っています。

 ところが、私たち異邦人へのメッセージは、罪の告発だけではありません。その先の希望についても語られるのです。預言者たちが一つの系譜を辿ってきたのは、そのメッセージが受け継がれてきたためと言えるかも知れません。「わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす」とあり、「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」とあります。神さまの栄光が異邦人の救いという中で輝いていくのです。驚くべきことに、それは「私たちの中に!」であり、それほどの輝きが約束されているのです。イエスさまの十字架に罪赦されたということが、どれほどすばらしいことか、もう一度深く味わい考えなければと思わされます。イザヤは、この2つの神さまのメッセージで、しもべの歌第二歌を閉じようとしています。そして、そのメッセージは、イザヤ書最後の66章をも彩っています。「わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る」(66:18) それはまさに、全世界への神さまの救いの約束が、預言者のメッセージの最終到達点だと叫んでいるかのように聞こえてくるではありませんか。こんな私たちのために!