預言者の系譜
6  エリヤ(6)
十字架のことばを

U列王記 2:1−14
  ヨハネ  20:21−23
T 最後の訓練を

 エリヤの6回目ですが、エリヤが天に上げられる最終回です。
 エリヤがいつ頃預言者として立ったのか不明ですが、活動した期間は、主にアハブ王の北王国治世20年の後半ですから、全体で10年くらいだったかと思われます。アハブ王の子アハジヤの治世の数年間は、ほとんどを預言者集団の指導・教育に費やしていたようです。すでにアハブは預言通りに亡くなっていましたが、イゼベルは隠然健在で、勢力を保っています。彼女の影響でしょうか、北王国はまた元のバアル信仰へ戻っていました。そして、次にヨラム王が登場して来ますが、彼の時代に周りの国々との動乱が起こります。エリヤは、その激動の時代を前に天に召されるのですが、BC852年頃のことです。

 「主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った」(1)とあります。ギルガルは、サマリヤから少し南下したエフライム山中の町と思われますが、そこにエリヤ主催の預言者学校があったようです。エリヤとエリシャはそこからベテルに、エリコに、そしてヨルダン川まで南下します。「エリヤはエリシャに『ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから。』と言ったが、エリシャは言った。『主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたのそばから離れません。』こうして、彼らはベテルに下って行った。するとベテルの預言者のともがらがエリシャのところに出て来て、彼に言った。『きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。』エリシャは『私も知っているが、黙っていてください。』と答えた」(2−3)とあり、同じことがベテル、エリコでも繰り返されたようです。エリヤは既に、神さまから「エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ」(同16)と言われ、後継者としてエリシャを選んでいました(T列王19:19−21)が、彼はここで、エリシャに最後の訓練を施そうとしていたのでしょう。ここに<ベテルの預言者のともがら>(エリコでも)が登場してきますが、「主があなたの主人を」とあり、エリヤの預言者集団とは別の群れのようですが、この時エリヤは既に、イスラエルにとって大切な指導者でした。彼らはその最後に立ち会うことで、預言者集団の次の指導者として、エリシャを認めるか否かを見ようとしていたのでしょう。エリシャは「黙っていてください」と願いながら、彼らの期待に応えようとします。


U 用いてくださるお方は

 ここで、何故エリヤがヨルダン川まで行ったのか明かではありませんが、川を渡ることで、エリシャへの最後の訓練の場を作ったのではと想像します。ヨルダン川はそれほど大きな川ではありませんが、エリコ周辺は河口に近く、流れはかなりきついのです。かつて、イスラエルがカナンに侵攻しようと渡ったのは、この辺りだったようです。契約の箱を担いだ祭司が川の水に足を入れると、上流の水がせき止められ、そこに道が出来て、十万の兵士が川を渡った(ヨシュア記3章)とあり、エリヤの脳裏にはそれがあったのかも知れません。不可能を可能にする神さまの助けが、エリシャにも必要と判断したのでしょう。当時いくつもの預言者集団が存在し、彼らは一人の指導者のもとで訓練を受け、自分の先生の教えを広める役割を担っていましたが、エリシャもその一人だったのでしょう。奇跡を行なうことはなかったし、集団を率いるカリスマ性もまだなかったのですが、エリヤは、エリシャにその指導力が必要と考えたようです。彼は外套を脱いでヨルダン川の水を打ちます。すると水が両側に分かれ、渇いた道が出来、二人は向こう岸に渡っていきます。そこがエリヤの召される地だったのです。恐らく、エリヤ、エリシャ、また後について来た預言者たちにも、神さまから事前にそれが知らされていたのでしょう。預言者たちは川を渡らず向こう岸で様子を窺っています。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい」、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」、「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない」(9−10) <あなたの霊の、二つの分け前>とは長子の分け前のことで、申命記には<きらわれている妻の子を長子として認め、二倍の分け前を与えなければならない>(21:17)とあります。エリシャは、自分が神さまの目に叶った者であるとエリヤに認められることを望んだのでしょう。エリヤは<むずかしい注文>と言っていますが、エリシャを用いるか否かは神さまが決められることなのです。


V 十字架のことばを

 預言者たちが向こう岸から眺めています。その中にいた誰かがこの記録を確認したのでしょう。
 二人はヨルダン川の岸辺から少し奥に歩いて行きます。すると、「一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤはたつまきに乗って天へ上って行った」(11)と、極めて唐突に、エリヤはたつまきに乗って昇天して行きました。そして、これはエリヤの死ではないと、注意深く記されている印象を受けます。不思議な出来事ですが、エリヤの昇天は、事実この通りだったのでしょう。或る学者たちはこれを、エリヤの神秘性を誇張するものと言っていますが、確かに、エリヤの年齢など全く知らされず、その現われた時も不明、最後もまた、まことにミステリーに満ちています。彼がこののち担うであろう役割を考慮しつつ、神さまご自身がその神秘性を演出されたのかも知れません。旧約聖書の最後を飾るマラキ書は、「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(4:5)と、終末時にもう一度エリヤが姿を現わすと予告しています。今日でも、ユダヤ人たちは過越の食事にエリヤのための杯を用意し、エリヤがそこに立っているかも知れないと、しばし扉を開けて外を見まわすのだそうです。イエスさまはバプテスマのヨハネのうちに彼を見、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちは、変貌山上でイエスさまがモーセ、エリヤと話しているのを目撃しました。それはイエスさま十字架の証人として立つものだったのでしょう。そして終末の日に、エリヤが伝えるメッセージがどのようなものであるか、聞いてみたい気がします。

 彼にはやり残したことがありました。アハブやバアルの預言者たちを退けたが、未だイスラエルの民はバアル礼拝にうつつをぬかしており、彼らを、本来の神の選びの民として整えなければならなかったのです。しかし、それでも神さまは彼を召されました。彼の昇天の記事に、「火の戦車と火の馬が」が出て来ますが、それが何を指しているのか推測するしかありませんが、<火>とは、聖なる神さまのご臨在を言ったのではないでしょうか。戦車も馬も戦いに向けて突き進むものですが、エリヤを失ってなお預言者たちは、神さまの民を蝕むあらゆるものと戦わなければならない宿命を背負いました。<火>はそこに、神さまの助けがあることを示しているのでしょう。エリヤのやり残したことを、後の預言者たちが引き継ぎ、エリシャがその一番手だったのです。間もなく終末を迎えようとしている今、私たちにもまたエリシャのように、担うべき託されているものがある。イエスさまが言われました。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」(ヨハネ20:23) 託されたものは神さまのみことばであり、私たちもまた預言者の系譜に招かれているのです。イエスさまに愛されている者として愛に溢れ、生けるみことば、十字架の赦しを伝えていきたいと願います。