預言者の系譜
59  イザヤ書・第二部(8)
苦難の序曲

イザヤ書 49:1−6(1)
ルカ   22:39−44
T 耳を傾けよ

 今朝は「しもべの歌・第二歌」と呼ばれる49:1-6からです。この「しもべの歌」は、4つあるうち第二歌から第四歌までが49章〜53章と集中しており、第一歌だけが42章とかなり離れています。恐らく、イザヤは、第一歌と第二歌との間で、神さまの啓示を何回も反芻していたのではないかと思われます。決して啓示が途絶えていたということではなく、彼の中にそのイメージが熟成されていなかったのでしょう。第一歌で誕生した「主のしもべ」は、イスラエルやイザヤ自身やクロスなどさまざまな人物に見立てられていますが、そういった多面的な性格が、次第に「苦難のしもべ」という性格を帯びてきます。その苦難を通して私たちの救いに関わっていくということです。その過程が熟成され、今、再登場して来たということではないかと感じられます。ともあれ、第二歌に入っていきましょう。

 「島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ」(1)とこれは、6節にあるように、現代の私たちを含む地の果てまで、世界中の人たちへのメッセージです。二回繰り返されていますが、強調でしょう。「私に聞け」「耳を傾けよ」と、これも繰り返され、強調されていることは、このメッセージに全世界が注目しなさいという呼びかけと思われます。何を聞かなければならないのか、実は、ここに、非常に濃い密度でメッセージがいくつも語られていますので、それを二回に分けて聞いていきたいと思います。今朝はその一回目、二つのことを聞いていきましょう。まず第一のことです。

 「主は生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた」(1) ところで、今朝のテキストとして1-6節を上げましたが、「しもべの歌」は恐らく1-3節であって、4-6節はその繰り返し、又はより詳しい説明でしょう。その5節に、「主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた」とあります。「呼ばれた」その前に、「ご自分のしもべとして形造られた」という神さまの決意があることに注意しなければなりません。決意なのです。「ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために」神さまが断固決意して、「しもべ」の誕生となるのです。ここに言われる「ヤコブ」「イスラエル」は、世界的な広がりを持つ新しい主の民を言っているのです。


U その名を

 「名を呼ばれた」(1)とあります。「名前」はその人の人格そのものであって、単なる記号ではありません。ですから、神さまがしもべの名を呼ばれたというのは、しもべの全人格に関わるのはもとより、これを形造られた神さまの思いまで一切が込められていると聞かなければなりません。「聞け」「耳を傾けよ」と言われる時、何を聞くのか?というその第一に、まず神さまの思いを上げなければならないと思います。「わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす」(3)とある通りに、今、神さまは、しもべを通してご自身の存在とそのご意志とを明らかにされようとしておられます。神さまはしもべを通して、何かを始めようとしておられる。神さまご自身を明らかにされようとしておられるのです。これまでも繰り返し語られてきた「見よ。わたしは新しいことをする」(42:9、43:19)は、そのことを指していると聞こえてきます。しもべはそのために登場してきました。ですから、「しもべを召し」「しもべの名を呼ばれた」ということ自体が、ここに込められた第一のメッセージであると言えるでしょう。

 「生まれる前から」「母の胎内にいる時から」とあります。イエスさまご降誕の折りに、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ1:21)とヨセフに告げられた、天使ガブリエルのことばが思い浮ぶではありませんか。「イエス」とは「主は救う」という意味です。私たちの罪を十字架に贖い、救うためにイエスさまがこの世に来られた、これがイエスさまの福音です。神さまと人間とを遠く隔てていた罪を取り除き、「ヤコブを神さまのもとに帰らせ、イスラエルを神さまのもとに集めるために」イエスさまが私たちのところに遣わされたと聞こえます。このしもべはイエスさま、そして、新しいイスラエルはイエスさまの十字架に罪贖われた者たちであると言っていいでしょう。預言者は、このしもべを通して、私たちに神さまを見つめることを願っているのです。きっと、イザヤ時代のイスラエルにさえ、もう、その姿勢が失われていたのでしょう。そして、現代はそれ以上に神さまから遠く離れ、年々罪による破滅へと向かっています。そこから回復するためには、このイエスさまを見つめる以外にないと思うのです。


V 苦難の序曲

今朝聞きたい第二のこと、「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した」(2)とあるところからです。「鋭い剣」「とぎすました矢」は、いづれも当時を代表する戦いの攻撃的な武器です。しもべがその武器にたとえられているのは、彼が私たちの罪を裁くことの出来るお方であることを指しているのでしょう。これは神さまの正しさを象徴しているようです。人の罪に対する神さまの怒りが、「鋭い剣」「とぎすました矢」という表現になったのではと思われます。それほどに、人の罪が神さまの前で極みに達していました。特に、それは、現代の私たちに向かってのメッセージと聞こえてくるのです。あるいは、彼は神さまご自身を具現化した存在であると言っているのかも知れません。裁くことは神さまの特権ですが、しもべがその特権を持つのは、彼が神さまの全権を担って登場してきたからでしょう。「私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた」(5)とあるのは、その意味と思われます。ヘブル語で「働く者」を意味する「しもべ」ということば自体に、「親愛なる者」とか「息子」という意味が込められています。恐らくこのしもべは、神さまの代理人として私たちのところに来られました。「わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす」(3)という言い方には、そのニューアンスが聞こえてきます。

 しかし、その武器は「隠されて」しまうのです。鋭い剣やとぎすました矢を力任せに振るって戦いに勝つことを最高の使命としていた王たちとその兵士たち、彼らが生きていたイスラエルなどの古代社会で、その武器を隠してしまう(放棄)のは、敗北と滅亡を意味していました。彼らの正しさは、その力の行使によって裏打ちされていたのです。そして、現代の次第にエスカレートしていくテロと、その撲滅のために大量の近代科学兵器が投入されている戦争などを見ていますと、残念なことですが、そのような価値観は現代にもそのまま息づいているように感じられます。しかし、このしもべはその武器を放棄してしまいます。特に「矢筒の中に私を隠した」とあるのは、その武器を使用することがないことを意味しているのでしょう。しもべは神さまの力をその身に負いながら、その力を行使することなく、正しさを主張することもないのです。きっと、そのようなしもべ像を、預言者は実在の人物の中に見出し得ませんでした。ただ、神さまの啓示の中で、そのようなしもべを「早く来てください」と、希望の目をもって見つめていたのではないかと思うのです。

 イザヤは、この「武器を隠した」しもべの苦しみを証言します。「わたしはいたずらに骨折り、うつろに、むなしく力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である」(4、新共同訳) 行使することのない神さまの力の故に、悩み苦しんだしもべの姿が浮き上がってくるようです。苦難のしもべの序曲でしょう。ゲッセマネの園で苦しみつつ祈った、イエスさまの祈りが聞こえてくるようです。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42) このイエスさまのお苦しみが私たちの救いになったことをかみしめたいのです。