預言者の系譜
58  イザヤ書・第二部(7)
白髪となるまで

イザヤ書 46:1−4
エペソ書 1:3−7
T 神々の栄光は?

 前回45章で、イスラエルの救いのために神さまがペルシャ王クロスを用いられるという、イザヤの熱いメッセージを聞きました。それは、イザヤの時代から1世紀半も先のことですが、クロスは見る見るうちに頭角を現わし、瞬く間にバビロンを無血制圧し、歴史の舞台に登場してきます。そんな45章に続いて、今、バビロニヤの崩壊というドラマが展開し始めます。

 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身とりことなって行く」(46:1-2)と、46章はバビロニヤの神々の没落から始まります。ベルはバビロンの主神マルドゥク、ネボはその息子で準主神とでも言える神々ですが、きっと、バビロン崩壊の危機に、祭司たちはベルやネボを家畜の背に載せ、脱出しようとしていたのでしょう。ところが、クロスの兵士たちにそれが見つかり、とりこになってしまいます。さながら、これらの神々を手に入れた者が戦いに勝利するとでも言いたげです。神々をとりこにして自分の国に連れて行く、それは、世界のどの民族にも、またいつの時代にもあったようです。神々をターゲットにすることで、その国の繁栄を我がものにしたいということなのでしょう。しかし、ベルもネボもそんな屈辱を受けながら、何もすることが出来ません。バビロンの守護神でありながら守護どころか、彼ら自身がそれを背負う動物たちの重荷になっているのです。バビロン崩壊の告知は47章に生々しく記されています。そして、その光景がクロスのもとで実現した時、彼はバビロン王の称号を得て無血入城し、その勝利がマルドゥクによるものであると、その神々をそのまま自分の守護神として受け入れましたので、ベルもネボもその地位は変わりません。しかし、彼らは同じ神殿に連れ戻され、今度はクロスに仕えることになります。彼らはクロスの前にひざをかがめ、ひざまずいたと言えるでしょう。


U 「わたしに聞け」

そんな情けないバビロンの神々に比べるかのように、預言者は神さまの宣言を高らかに伝えます。「わたしに聞け、ヤコブの家々と、イスラエルの家々のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれた時から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」(3-4) ここから聞きたいまず一つ目のことです。「ヤコブの家々と、イスラエルの家々のすべての残りの者よ」とありますが、「ヤコブ」と「イスラエル」という2つの言い方、これは、先に44:1で古い罪の体質を持つ「ヤコブ」と、神さまによって新しくされた「イスラエル」とが語られていると聞きましたが、ここではどうなのでしょうか。「残りの者」とは、神さまの恵みによって破滅を免れる少数の人たちを意味し、イスラエルでは古くから聞いてきたことでしたが、45:20には「国々から逃れて来た者は集まって、共に近づいて来るがよい」と、異邦人の中にも「残りの者」がいると主張されており、イザヤはこれを、新しい神さまの時に焦点を合わせた、極めて新約的な「終末」と「救い」に関連づけていると聞かなくてはなりません。「ヤコブ」はユダヤ人、「イスラエル」は現代の私たちをも指していると聞いていいのではないかと思われます。

 「わたしに聞け」(3)という神さまの切なる願いは、もちろん、直接にはユダヤ人に向けられたも のでしょうが、パレスチナへの帰還、エルサレム神殿の再建という神さまの恩恵に浴しながら、ついにローマへの大反乱時代を経てAD70年にエルサレム陥落、国を失って世界の各地で流浪の民となってしまったことを考えますと、結局、彼らには届かなかったと言えるのでしょう。そして、イザヤは19節にもう一度「わたしに聞け。強情な者、正義から遠ざかっている者たちよ」と繰り返します。このメッセージは何度も何度も繰り返し語られました。しかし彼らは聞く耳を持たないのです。まるで現代の世相そのものを映し出しているようで、きっと、現代にも「残りの者」はことば通り、非常に少ない主の民なのでしょう。しかし、その民たちがいるのです。預言者の希望がそこに込められていると、彼の痛みと期待が入り交じって伝わってくるようです。


V 白髪となるまで

3-4節から聞きたい二つ目のことは、「持ち運ぶ」ということです。ベルとネボのことにもう少しこだわりましょう。実は、バビロンがその威勢を誇っていた時に、彼らは四月に行われる新年祭で行列の中心に担がれ、両神殿の間を練り歩いたと伝えられます。彼らはその巨大な像を見世物にして、その栄光の姿を人々の間に誇示してきたのです。しかし、神さまは断固これを退けます。「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない」(42:8、48:11)と、神さまの彼らに対する評価は一貫していました。「金細工人を雇って神を造り、これにひざまずいてすぐ拝む。彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない」(5-6) これはレプリカで、人々が自分の家に安置して礼拝の対象としたものでしょう。預言者はそんな神々を、単なる物言わぬ偶像に過ぎないではないかと、栄光ある神とは一切認めません。偶像を有する世のあらゆる宗教について、これは神さまの厳しい、そして正当な評価であると言っていいのではないでしょうか。

 巨大な石像であったり、或いは、黄金で造られるなど、それがどんなに立派に見えようとも、彼らは物言わぬ飾り物にすぎないが、しかし、私たちの神さまは「彼らとは違う。神さまは私たちを持ち運んできたのだ」と、これが歴代の預言者たち、そして信仰の戦いを戦い抜いてきた先輩たちの証言の中心点でした。きっと、イスラエルをバビロンに捕囚としたことも、また、70年後バビロンから帰還させたことも、そして、AD70年ローマ軍侵攻のもとイスラエルを世界中に散らしたことも、その流浪の民を近年パレスチナに呼び集めたことも、神さまがご自分のご計画に従って彼らを持ち運んだということではないかと思います。ここを、「私たちが真に拝むべきお方は誰なのか、私たちを真に生かし支えるお方は誰であるかという、このところに聖書の最も基本的なメッセージが語られている」と指摘した人がいますが、まさにその通りでしょう。聖書全体のメッセージがここに凝縮されているのです。

 白状しますが、実は、このところに何日も何日も時間をかけました。しかし、言葉が多くなればなるほど、ここのメッセージから遠ざかってしまうようで、私の説明などは全く不要でした。

 「胎内にいる時からになわれており、生まれた時から運ばれた者よ」(3)と、これを自分に呼びかけられていると聞いて頂きたいのです。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする」(4)と、この4節には「わたし」という神さまの一人称主格強調形が5回も繰り返されています。「わたしがあなたがたを持ち運ぶのだ」という神さまの強い意志が聞こえてくるではありませんか。「私たちが白髪になっても、神さまは私たちを守り、支え、励まし、導き、慰め、そのように背負ってくださる」と、これは私たちの信仰の中心で聞かなければならないところであると、神さまの前にひれ伏し、告白しなければと思います。「わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」 バビロンの滅亡などがここの中心主題ではないのです。「『主が、そのしもべヤコブを贖われた』と言え」(48:20)とあり、イエスさまの十字架の贖いこそが、ここに語られる中心メッセージであると聞かなければなりません。神さまが私たちを新しく創造された。それ故に、私たちの一切に責任を持ってくださる。こう聞くだけで、私たちにはもう十分すぎるほど、神さまの恵みが伝わってきます。「あなたを祝福する」と神さまの恵みの宣言を聞いていこうではありませんか。