預言者の系譜
56  イザヤ書・第二部(5)
主は力を込めて

イザヤ書 44:21−28
マタイ  5:1−16
T 祝福の宣言を

 43章でイザヤは、「ヤコブ」を「イスラエル」と言い換えていましたが、それは、「わたしがあなたを贖った」(43:1)という理由によると宣言しています。もし、神さまのそのような恩寵がなければ、ヤコブは、人の痛みが分からないままの、不誠実な歩みを続けていたことでしょう。そのようなヤコブに私たちの姿が重なってくるのですが、人間というもの、決して自分で変わることが出来ないと、そんな気がいたしますね。しかし、神さまのご介入があるなら、変わることが出来るのです。特に最近のいろいろな出来事を見ていますと、神さまのそのご介入が待ち望まれてなりません。

 今朝は44:21-28からですが、ここにも「ヤコブよ」「イスラエルよ」という両方の呼びかけがされています。これは「今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ」(44:1)と同様の言い方があって、今朝のテキストは44章最初からの続きです。ここに言われる「選び」は、「あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主」(2)「イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしがあなたを造り上げた」(21)という神さまの宣言につながっています。そしてそれは、「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える」(3-4)とあるように、神さまの祝福の宣言なのです。この「ヤコブ」から「イスラエル」への言い換えは、43章で確定された「あなたはヤコブであったが、今はイスラエル・主の民である」という祝福の言い方であると聞いていいでしょう。2節でヤコブはエシュルンと呼ばれますが、それは「まっすぐな」とか「高潔な」という意味なのです。9-20節に挿入されている人間が神さまの偶像を造ったという鋭い非難、これは同じ「造った」という出来事ですが、神さまのイスラエル創造は、そんなこととは全く違うと、2つの創造を対照させています。神さまの創造は祝福という実像を伴うと、そんな宣言ではないかと聞こえてくるのです。


U 贖いの主は

 きっと、そのような神さまの祝福が、このメッセージを聞くキイワードと思われます。「あなたはわたしのしもべ」(21)と二回も繰り返されていますが、このキイワードを軸にここを見ていきますと、「しもべ」には「我が子」「我が愛する者」という響きが込められていると伝わってきます。そうしますと、「イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った」(21-22)と言われることは、神さまのこの愛情が溢れ出たものであるとお分かり頂けるでしょう。雲やかすみは、罪が跡形もなく消え去ったことを強調しているのですが、それは具体化された神さまの祝福であると聞こえてきます。

 ところで、私たちに罪ありと断定することも、また、罪なしと認定することも、神さまの領域であると覚えておかなければなりません。その領域は、私たち人間の断じて侵してはならないところです。それなのに、しばしば私たちは、自分の問題を棚上げして、他人の罪をあげつらうことがあります。熱心なクリスチャンにその傾向が多いのはとても残念ですが、それは、信仰の名のもとに神さまの領域に踏み込んでいるからに他ならないでしょう。神さまの前では、自分は罪人の頭であるとへりくだるのですが、人の前に立ちますと、たちまち「正しい人」になって、他の人の悪いところを数えてしまうのです。わきまえなければなりません。私たちは「正しい人」にされたのではなく、「もうあなたには、罪を認めない」と、神さまの祝福に招かれた者なのですから。

 「あなたの罪をぬぐい去った」という神さまの祝福は、「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」(22)という宣言に裏打ちされています。この「贖い」がここの中心主題でしょう。44章には集中してこのことばが用いられています(6、22、23、24節)。このことばについては、前回43章で触れたことですが、もう一度繰り返しておきましょう。「贖い」とは、もともとイスラエルの民法上の法律用語で、「土地を失ったり、奴隷になったりと、不自由な状態に陥った家族の生活や利益を、その家族のために元の状態に戻すこと」を意味しており、その賠償責任を担う者は当事者に最も近い親族でした。神さまが「わたしがあなたを贖った」と言われるのは、その賠償責任を「わたしが負う」という宣言であって、神さまがその人の最も近い存在になってくださったということなのでしょう。神さまは私たちのために、ご自分を犠牲にすることが喜びでした。23節にはそんな神さまの喜びがおどっているようです。「天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現わされるからだ」


V 主は力を込めて

 神さまがヤコブ(私たちと聞いてよい)について、「わたしがあなたを贖った」とは、全身全霊を込めてということでしょう。恐らく、片手間であったとしても、神さまのなさることを私たちは想像することができないでしょう。それほど私たちとかけ離れた全知全能のお方、24節に「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただわたしだけで、地を押し広げた」と主張しておられるお方が、片手間ではなく、ありったけの力を込めて私たちを祝福しようとしておられるのです。その神さまの熱心の一端を見てみましょう。「わたしは自慢する者のしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする」(25) ここまで文明が進歩してきたと、人間のすばらしさを賛美してやまない現代は、このことばの前で謙遜にならなければならないと思うのです。「わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる」(26)と、ここに言われる「しもべ」「使者たち」は恐らく預言者のことでしょう。神さまは、人々が予測もしない未来のことを、預言者たちに語らせるのです。それは神さまのご計画であり、必ず成就すると、これはイザヤ自身のメッセージを指しているのかも知れません。「エルサレムに向かっては、『人が住むようになる』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う」(26)「エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う」(28)と、二度まで語られるこの復興のメッセージが、エルサレムがバビロンに蹂躙されるずっと以前のことと考えますと、神さまの目が先の先まで見通し、すでに希望を失いかけているイスラエルへの慰めにどんなに心を砕いているかと、その熱い思いが伝わってくるではありませんか。そして、驚くことに、イザヤの時代から140~150年も後の時代の、ペルシャ王クロスの名前が上げられています。「わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う」(27) クロス王のことは次回の45章で取り上げますが、彼は神さまの器としてエルサレム・ユダヤ復興の担い手になりました。

 日本語訳を見ただけでは分かりませんが、実は、25-28節はひとつの長文になっています。その内容を今見たのですが、その内容よりも、「神さまが成し遂げる」といわれるのがここの主張力点なのです。いくつものことを綿密に計画し、私たちのために、その実現に全力を傾けておられるのです。エルサレムと言い、ユダの町々と言われますが、それは現代の私たちに置き換えてもいいでしょう。このメッセージはそのように、この全力投球は私たちのため……と聞いていかなければなりません。その神さまの祝福、十字架によって私たちを罪の中から贖い出してくださった主の愛の祝福に、目を向けようではありませんか。