預言者の系譜
55  イザヤ書・第二部(4)
主に愛されて

イザヤ書 43:1−7
ロマ書  5:1−11
T ヤコブよ。ああイスラエルよ。

 42:19-20に「わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳しいた者がほかにいようか。……あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない」とあります。この「しもべ」はイスラエルを指しているのでしょう。イザヤ当時のイスラエルは、まさに目が見えず、耳の聞こえない者でした。それは特に、地主や貴族に搾取されている貧しい人たちが、苦しみながら叫んでいるのに見向きもせず、その叫びに耳を貸そうともしない指導者階級への神さまの叱責が、「盲目の者……」という悲痛なことばになったものと思われます。そして、イザヤは彼らと同じ階級に属していましたから、「この方(神さま)に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、その教えに聞き従わなかった」(24)とこれは、イザヤ自身の告白でもあると聞こえます。イラクの武装勢力に拉致されて、いのちの危険すら味わった方たちをねぎらいもせず、とんちんかんな「自己責任」を振り回している権力者と、そんな「お上」に追従して、被害者の痛みに追い打ちをかけるような今の時代、「目が見えない」「耳が聞こえない」と叱責されるところに、何か重なってくるではありませんか。恐ろしい時代になってきました。

 今朝のテキストは43:1-7ですが、いま取り上げたイスラエルへの叱責の記事(42:18以降)が、この箇所の背景になっています。1節に「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる」とあります。「ヤコブ」という呼びかけをイザヤが用いる時には、ほとんどと言っていいほど、人間的な弱さやエゴーの固まりといった彼の「罪」が意識されているようです。創世記25章以下を見ますと、ヤコブが何回も何回も父イサクや兄エサウや叔父ラバンを騙したり裏切ったりする様子がこと細かく描かれていますが、ヤコブとは「押しのける者」という意味で、それが誕生の時から彼の辿ってきた生き方でした。そんな生き方を彼の子孫たちが受け継いでいると断罪しているのですが、それがすぐに「イスラエル」と言い換えられます。イスラエルとは、ヤコブが「ヤボクの渡し」で主にお会いし(創世記32:22-29)、「あなたの名はイスラエル」と呼ばれたことによります。以後、選ばれ祝福された契約の民として、イスラエルがその子孫への呼び名として用いられるようになりました。


U わたしがあなたを贖ったのだ

 1節に「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」(1)とあります。これがその理由でしょう。「贖い」とはもともと「買い戻す」という意味ですが、それは、イスラエルの民法上の法律用語で、「土地を失ったり、奴隷になったりと、不自由な状態に陥った家族の生活や利益を、その家族のために、元の状態に戻すこと」を意味していました。その賠償責任を持つ者は当事者に最も近い親族でしたが、「わたしがあなたを贖った」とは、その責任を神さまが負うという宣言で、そう宣言することによって、神さまは彼の最も近い存在になってくださったということなのです。「わたしはあなたの名を呼んだ」(1)とあるのは、そんな神さまの親しみと恵みを込めたことばなのでしょう。

 「しもべの章句」中に語られているこの宣言は、イエスさまの十字架において実現したと受け止めていいと思われますが、神さまの宣言をそのように聞きますと、「あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(1-2)とある神さまの守りが、神さまのその恵みの宣言によるとお分かり頂けるのではないでしょうか。水や火は、イスラエルが実際に何度も経験してきた災害や戦災を言うものですが、これは何もイスラエルだけのことではありません。それは世界中のどの地域でも、現代に至るまで絶えたことはありません。特に戦火と言いますと、20世紀は戦争の世紀と言われ、21世紀はすでにそれを上回る勢いで拡大し続けている観があります。しかし、そのような苦労を重ねても、そこに神さまの慰めがあると聞くなら、立ち上がることが出来るでしょう。そこに必ず、神さまの救いの手があるからです。神さまの宣言は、心を込めて聞くべきものです。「恐れるな」とは、信仰の勧めであると何度も聞きました。

 「わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ」(3)と、イザヤ書に何度も見られる「わたしはあなたの神・主」「イスラエルの聖者」「あなたの救い主」という神さまの主張が、ここで一つにまとめられています。その中心が「イスラエルの聖者」なのです。そこには「イスラエル」が意識され、イスラエルは神さまの特別な民であるという主張があります。それは、神さまの中で特別な民と意識された者たちがイスラエルと呼ばれるのであり、そこに信仰が問われているのです。


V 主に愛されて

 信仰に基づいた、新しいイスラエルということなのでしょう。「わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。わたしは、北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって『引き留めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(5-7)とあります。ここにある東西南北は、恐らくイスラエルを基点にしているのでしょう。いや、イスラエルということで、その中心が神さまだと言いたいのかも知れません。神さまの救いは、もはや古いイスラエルだけを想定しているのではなく、全世界の主を信じる者たちに向かって流れ出していくのです。「先のことは、見よ、すでに起こった。新しいことをわたしは告げよう」(42:9)「見よ。わたしは新しいことをする」(43:19) これは新しいイスラエルの創造と言えそうです。

 ここに2回も、「恐れるな。わたしがあなたとともにいる」と語られています。これは、祭儀宗教に堕落し、「神さまが遠くに離れてしまった」という問題を抱えたイスラエルの信仰に、根本から問い直しています。「わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」(43:3)とあるのは、ペルシャのクロス王が、イスラエルを解放する代償として、これらの国々を手中に収めることを指しているものと思われますが、エジプトは往年の力を失ったとはいえ、世界の大帝国です。クシュ(エチオピア)もセバもエジプトとともに栄えてきた国でした。その大国が、取るに足らないイスラエル解放の身代わりにされるという神さまの宣言です。「だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ」(4)と、これも同じ宣言でしょう。神さまは決して遠くに離れているのではなく、むしろ、大きな犠牲を払って、イスラエルをその迷い出たところから引き戻そうとしておられるのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(4)と、その大きな犠牲がイエスさまの十字架に重なってきます。イスラエルは、自己意識として作り上げた自分たちの「信心」などではなく、神さまご自身が尊い犠牲を払ってくださった「愛」と「恩寵」の中に、彼らの信仰の土台が築かれたと知らなければなりませんでした。私たちのイエスさまを信じる信仰は、イエスさまからスタートしているのです。このように聞いてきますと、すでに預言者の時代に、神さまの目は現代の私たちにまで注がれていると、そんなイザヤのメッセージが伝わってくるではありませんか。預言者の系譜の中に脈々と受け継がれてきたメッセージは、いつも〈現代〉に向かって語られてきたと聞かなければなりません。

 〈現代〉こそが聖書の世界でした。しかし私たちは、特別にその神さまの〈現代〉に生かされているのです。十字架の恵みによって! きっと私たちは、イザヤ時代のイスラエル以上に神さまに愛されているのでしょう。愛される値打ちのないことでは、イスラエルにはるか及ばないのに!! 
 しかし、しもべはあくまでも奴隷なのです。53:6には「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」とありますから、苦難は主人から出たことであると、彼は奴隷に徹していくのでしょう。それが「黙した」ことの内容であると理解します。そうしますと、この沈黙のしもべは、十字架のイエスさまを彷彿とさせてくれるではありませんか。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」(ピリピ2:8)とあるパウロの証言にも、そのことが窺えます。そして、その従順を愛した神さまも応えておられます。「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(2:9) 私たちのために、新しいいのちの道が確立したという宣言が聞こえてきます。「彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々もそのおしえを待ち望む」(4) 島々とは世界の国々、私たちのことだと聞かなければなりません。イエスさまの、その堪え忍ばれた十字架にこそ、私たちが本当に見つめなければならない神さまの姿があります。そのお方に目を向け続けて頂きたいと心から願います。