預言者の系譜
54  イザヤ書・第二部(3)
見つめるべきお方は

イザヤ書 42:1−4
ピリピ書 2:6−11
T 主のしもべ

 今朝は「しもべの章句」として知られるところに入ります。「しもべの章句」と呼ばれるのは、第一が42:1-4、第二が49:1-6、第三が50:4-9、第四が52:13−53:12と4つ数えられていますが、今朝はその第一、42章からです。「しもべの章句」については、4つの歌(詩の形式になっていますので「しもべの歌」とも呼ばれる)がなぜ散らばっているのか、またその相互の関連性、特にしもべの人物像など、非常に多くの議論が今も続いているのですが、これはイザヤ書の中心であり、また旧約聖書の最高峰であろうと言われています。下調べをしながら、何度も壁に突き当たりましたが、その最高峰のメッセージを何とか聞いていきたいと願わされました。

 まず冒頭からです。「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ。わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす」(42:1) このしもべは何の前触れもなく、突然現われたのでしょうか。そうではありません。イザヤ第二部の最初の40章で、私たちは「見よ。あなたがたの神を」(40:9)と聞きました。預言者は、神さまのことを忘れていたイスラエルの人たちに、まず神さまが天地万物、人間、とりわけイスラエル民族の創造者であることを思い出して欲しい、その創造者なる神さまを見つめて欲しいと願ったのです。創造者を見つめることで、そんなにも大いなる方がイスラエルの神さまであると、彼らの立脚点を取り戻して欲しかったのです。そして次に、その神さまが、今もなお彼らイスラエルの中に生き、働いておられる主権者であることを想起させようとしています。創ったまま、あとは知らないと遠くへ行ってしまった神さまではなく、「あなたとともにいる」神さまだから、見つめることが出来るでしょうと預言者は言っているようです。そんなふうに、私たちの見つめるべきお方を順々に明らかにしようとする、彼のメッセージが続いているのです。そして、創造者であり主権者である方の、更に続く主張を聞くことは、現代の私たちにも必要な生き方であると思われます。


U いたんだ葦を折ることなく

 41:27-28に「わたしがエルサレムに、良い知らせを伝える者を与えよう。(しかし)わたしが見回しても、だれもいない。彼らの中には、わたしが尋ねても返事のできる助言者もいない」とあります。神さまがいくら願っても、人間の中には、イスラエルに「良い知らせ」を持ち運んでいく者が見あたりませんでした。助言者とは、単なる伝達者、相談者ではなく、神さまの「良い知らせ」そのものとなる伝え手を指しているのでしょう。それは、地の果て(41:8・罪)に苦しむ者たちを救い出そうとする神さまのご計画でした。しかし、いくら神さまが見回しても、その任にふさわしい者は見あたりません。そこで神さまのしもべの登場となります。神さまは、ご自身の霊を授けた神的人物・メシヤをご自身のしもべとして、私たちのところに遣わそうとされるのです。

 「彼は国々に公義をもたらす」(1) 当時、裁判官が不正を行うなどで人々の間に不満が募り、それが「神さまが遠くに離れてしまった」というイスラエルの苦悩の大きな原因の一つになっていたのでしょう。地主や貴族などが、貧しい者たち弱い者たちから不当に搾取していました。イザヤだけでなく、預言者たちは何度もそんなイスラエルの罪を暴き立てています。しかし、いくら訴えても裁判官は貧しい者たちの味方にはなってくれず、民衆は正しいさばきが行われることに絶望していたと思われます。イスラエルでは、裁判官は神さまの代理人と見なされていた筈ですが……。ここに主のしもべが「公義をもたらす」ために立てられたのは、そのような貧しい人たちの叫びが神さまに届いたからでしょう。公義とは、さばきとか訴えを指す法廷用語で、「正しいさばきを行う」、これが主のしもべの任務でした。彼はその任務をいかにも柔和に遂行します。彼は「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」(3)のです。今、正義を遂行するのに、力を行使して当然という強者の論理がまかり通っているようです。アメリカのイラク戦争や、イスラエルのパレスチナ人への締め付けなどはその好例でしょう。今、世界各地で頻発しているテロは悲しむべき犯罪行為ですが、テロという手段しか持たない弱者の悲鳴がそこから聞こえてくるように感じられてなりません。そして、そんな紛争のために犠牲となっている幼い子どもたちの姿を見ますと、「いたんだ葦、ほのぐらい燈心」に配慮する心を失って、何が正義かと言いたくなります。弱い者たちへの配慮が満ちている、そんな主のしもべの公義は、現代にこそ必要と思うのですが……。


V 見つめるべきお方は

 後先になりましたが、このしもべの紹介文とも言えそうなところを考えてみたいと思います。「彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない」(2)とあるところです。「叫ばない」を3度も繰り返して、このしもべは黙すということに徹底しています。ただ無口というのではなく、主張すべきことがあるのに黙っていることではないかと思いますが、何が彼の主張なのでしょう。「自分」ではないかと想像します。彼は、神さまの霊を注がれた神的存在でした。旧約聖書を読むとお分かりでしょうが、神さまは徹底的にご自分を主張しておられます。それなのに、この神さまの霊を注がれたしもべがひたすら「黙している」のは、その神さまに連なる者であることを振りかざそうとせず、むしろ、そんな自分の栄光を放棄しようとさえしているように思われるのです。そんなしもべの姿が、ピリピ書でパウロが証言したイエスさまに重なってきます。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」(ピリピ2:6-7)

 黙して語らない。それがどんなに辛いことであるか、そのしもべの姿をイザヤは53:7にこう記しています。「彼は痛めつけられたが、それを忍んで口を開かず、ほふり場に引かれていく子羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」 これは「しもべの歌」のクライマックスの部分ですが、そもそも、なぜ「しもべ」なのでしょうか。しもべということばは奴隷を意味しますが、それは主人に対する絶対服従の奴隷というよりも、主人に帰属する者という意味合いのほうが大きいようです。たとえばアブラハムやモーセ、ダビデなどが神さまに向かって「あなたのしもべ」と言うのはその意味においてです。しもべの側からは愛し慕う思いを込めて「わたしはあなたのものです」と言い、主人の側からは我が子のように愛し慈しみの思いを込めて「あなたはわたしのものです」と言う。その関係は非常に麗しいものであると言えましょう。

 しかし、しもべはあくまでも奴隷なのです。53:6には「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」とありますから、苦難は主人から出たことであると、彼は奴隷に徹していくのでしょう。それが「黙した」ことの内容であると理解します。そうしますと、この沈黙のしもべは、十字架のイエスさまを彷彿とさせてくれるではありませんか。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」(ピリピ2:8)とあるパウロの証言にも、そのことが窺えます。そして、その従順を愛した神さまも応えておられます。「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(2:9) 私たちのために、新しいいのちの道が確立したという宣言が聞こえてきます。「彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々もそのおしえを待ち望む」(4) 島々とは世界の国々、私たちのことだと聞かなければなりません。イエスさまの、その堪え忍ばれた十字架にこそ、私たちが本当に見つめなければならない神さまの姿があります。そのお方に目を向け続けて頂きたいと心から願います。