預言者の系譜
53  イザヤ書・第二部(2)
わたしがあなたの神

イザヤ書 41:8−10
マルコ 5:36
T 神さまから遠く離れて

 イザヤ第二部の冒頭に、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」(40:1)とありました。これが第二部全体の中心主題でしょう。「慰め」とは「深く息を吸い込む」という意味で、神さまのいのちの息が、傷つき痛んでいる人たちに吹き込まれて、新しい出来事が始まるという宣言であろうと聞きましたが、その新しい出来事が始まる序曲が今朝の主題です。40:12以下、特に41:8-10からです。

 まず覚えておかなければならない点ですが、イスラエルには、神さまの慰めを聞くことが出来ないという根本的問題がありました。それは、神さまから遠く離れ、神さまを見失っていたということです。預言者も沈黙しており、神さまは遠く離れて彼らの叫びには耳を傾けてくれず、そのため彼らは神の像を石や木に刻んで、それを自分たちの神としていました。アッシリヤに滅ぼされて他国に移住させられた北王国の人たちは、住み着いた土地の神々を受け入れていましたが、恐らく南王国も同じ道を辿ることになると、イザヤは鋭く洞察しているのです。

 彼らは神さまのことを、最も根本的なところから見つめ直す必要がありました。イザヤは神さまのことをまず第一に「創造主」であると主張します。「主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造した」(41:20) この主張は42:5、43:7、44:26……と、45章まで何回も何回も繰り返されます。天地万物と人間の創造を記した創世記1章の記事は、本来、造られた者すべてが自分たちのものとして共有すべきことでしょう。ところがユダヤ人は、それをイスラエルの歴史へとつなげ、天地創造も人間の創造もイスラエルの神さまがイスラエルのためにしたことであると信じているのです。その神さまに導かれて、彼らはカナンに国を築いてきたのであり、そこから選民イスラエルが誕生したのです。その身勝手さはともかく、彼らはもう一度そのことを思い出す必要がありました。イザヤが何度も繰り返し「神さまが天地万物を創造された」と主張するのは、彼らに、創造主こそ私たちの神さまだと、再認識して欲しかったからに他なりません。と同時に、創世記1章の記事は、私たちすべてが共有するところであり、私たちもまた、神さまの創造の業によって存在する者となったと知らなければなりません。神さまを覚える第一のことは、その点であると言えそうです。


U 見過ごしにされてはいない

 そして、ここでのイザヤのメッセージは、神さまが天地万物と人間とを創造されたというだけに留まりません。「創造された」と過去形だけなら、それがどんなに素晴らしくても、「神さまが創造されました」「ああ、そうですか。でも、今の私には関係ありません」となってしまうかも知れませんが、現代はまさにそんなふうに、人間が神さまとの関係を断ち切ってしまった時代と言えるでしょう。しかし、そうではないのです。神さまがすべてのものを創造された、だからここでは、その主権が今なお創造されたものへ及んでいるという強い主張が展開され、それがイザヤが語ろうとしている第二のメッセージなのです。「だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか」(40:12-)「主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる……」(同22-)と、「創造した」という神さまの主張は、「わたしがその主権者である」という主張に重なっていくのです。きっと、主権を主張することで、人との現在の関わりを宣言しておられるのでしょう。「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。『私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている』と。あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(40:27-31)とあることばは、神さまがまさに、私たちの今現在に関わっておられるという宣言ではないでしょうか。聞かなければならないところです。「見過ごしにされている」は、かつてのイスラエルだけではなく、現代まで続く人間の共通の神意識ではないでしょうか。しかし、ここには、神さまの悲痛なまでの「わたしはあなたの神」が訴えられています。私たちが神さまを見失っても、神さまは私たちを決して見過ごしにされてはいないのです。


V わたしがあなたの神

 神さまが関わってくださると、今朝のテキストには、その2つの中心主題が取り上げられています。第一は冒頭からです。「しかし、わたしのしもべイスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友アブラハムのすえよ。わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った」(41:8)「地の果て」「地のはるかな所」とあるのは、バビロンとか、アブラハムが住んでいたカルデヤのウルであるとか、いろいろ諸説ありますが、最初に「イスラエルよ」と呼びかけた言い方が、「ヤコブよ」と言い換えられていることに注目して頂きたいのです。イスラエルをわざわざヤコブと呼ぶ用例は、イザヤ書に40回ほど出てきますが、その約3分の2が40章以下に集中しています。恐らく、ヤコブの問題を念頭に置いてのことでしょう。ヤコブの記事(創世記27-33章)には、彼がイスラエルという新しい名で呼ばれるまで、傲慢で欺瞞に満ちた彼の、極めて人間的な部分が描かれています。父イサクを騙して兄エサウの祝福を横取りし、ついにハランの伯父ラバンのところに逃げ出しますが、そこでも彼は、何ともずるがしこい方法で自分の財産を殖やしています。ヤコブという名前は「押しのける者」という意味ですが、彼の場合にはいつも、主への信頼より人間的な損得勘定が優先しており、イザヤはそんな人間の弱さ・罪に殊更目を留め、「ヤコブよ」と言い換えたのでしょう。「地の果て」とは、神さまからはるか離れた「罪」を指していると聞こえてきますが、そこから私たちを呼び出してくださったのです。第一に神さまは、私たちの「罪」と徹底的に関わろうとしてくださると、「選び」ということばの中に、神さまの強い決意が感じられます。

 これがイザヤの中心主題であると思うのですが、もう一つのことです。罪の中から呼び出された私たちに、神さまが言われます。「あなたはわたしのしもべ。わたしはあなたを選んで捨てなかった。恐れるな。わたしはあなたがたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(41:10) この主張は何度も繰り返されていますが(43:3、44:6……)、神さまがどんなに私たちの神さまであろうと欲しておられるか、その強い願いが伝わってくるようです。これまでに何度も「ゴット・フュール・ウンス」というドイツ神学者のことばを紹介してきましたが、これは「神、我らのための」という意味です。神さまはただお一人でも神さまであられる方なのに、私たちのための神さまでありたいと願っておられ、それが、罪ある私たちを「選んで捨てなかった」と、実に的確に神さまの愛を言い当てているではありませんか。その神さまの愛にどう応えていくのか、問われるところです。イザヤ第二部が、「見よ。あなたがたの神を」(40:9)と展開されていくと聞きましたが、その神さまを「見続ける」ことこそ私たちの応答でしょう。どのような神さまを見つめなければならないのかと、イザヤのメッセージはそこに帰結していくようです。天地万物の創造主、主権者、罪の中から私たちを呼び出してくださったお方であり、そして「わたしはあなたとともにいる」と宣言される通り、私たちの祈りが届くところにいらっしゃるお方です。私たちの応答は、そのお方の愛に応えていくことです。「恐れるな」とありますが、これはイエスさまもしばしば用いられた「信仰」の勧めと聞いていいでしょう。私たちと徹底的に関わろうとしてくださるお方に、私たちもまた、深い信仰をもって応えていこうではありませんか。