預言者の系譜
52  イザヤ書・第二部(1)
見よ、あなたの神を

イザヤ書 40:1−11
Tペテロ 1:22−25
T 新しい出来事が

 しばらく途絶えていましたが、今朝から預言者の系譜の第二部(40-66章)に入ります。インマヌエルなど、第一部でもイザヤはイエスさまを指し示してきたと聞きましたが、第二部ではそれが一層明確になってきます。そして第二部では、アッシリヤに代わって肥沃なデルタ地帯の盟主となったバビロンが登場し、その舞台でヤハヴェの救いが語られます。そして、その救いのメッセージを、イザヤはずっと後の私たちにまで届かせようとしているようです。そのメッセージが、バビロン捕囚期のただ中で書き記されたように見えるため、これをイザヤとは別人の第二イザヤと呼ぶ人たちもあるほどです。しかしそうではありません。第一部を書き上げた数年後、預言者イザヤは再び神さまからのメッセージを聞き、この部分を書き記しました。だからこそ、このメッセージはイエスさまをも指し示すことができたのです。そんなダイナミックな神さまの救いのご計画を、彼の新しいメッセージから聞いていきたいと願います。

 「慰めよ。わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と」(40:1-2・新共同訳) イザヤの新しいメッセージは「慰めよ」と始まります。「慰め」とは「深く息を吸い込む」ことで、恐らく、傷つき痛んでいる人たちに神さまの新しいいのちの息が吹き込まれ、新しい出来事が始まると宣言しているのでしょう。これが第二部の中心主題と聞こえてきます。第一部のメッセージでは、その大部分がイスラエルへの神さまの叱責で占められていましたが、イザヤは神さまから「赦し」「救い」という新しいメッセージを聞き、それが彼自身の慰め・第二部になっていったと思われます。「罪のすべてに倍する報い」(2)とあります。恐らく、イザヤ自身が罪の意識を感じていたのでしょう。「倍」とは、数量的二倍と元のものの写しという二つの意味を持ちますが、「二倍」ならば主の祝福、「写し」つまり等倍ならば罪に見合う罰のことでしょう。いづれにしても、主の目が、罪を犯した者たちへの優しさに傾いているのをイザヤは感じています。それだけに彼は、赦しと慰めのメッセージを、第一部にまさって力強く語りかけてくるのです。


U 預言者空白の時代に

 「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を備えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ』」(3-5) 福音書はここを、イエスさまのために道備えしたバプテスマのヨハネを指していると受け止めています。確かにイザヤは、そのような人物のことを語りながら、救い主を指し示そうとしているのでしょう。「大路」は、バビロン捕囚の民がエルサレムに帰還して来る道ではなく、現代の私たちをも救いに至らせる主の栄光の道であり、イエスさまを指し示すと聞かなければなりません。新共同訳が4節を興味深く訳しています。「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」 谷も山も私たち自身のことと聞こえてきます。

 しかし直接的には、イザヤのメッセージは、バビロンに捕囚となる人たちがエルサレムに帰還するというユダヤ人への慰めでした。イザヤは北イスラエル王国がアッシリヤによって滅亡していくのを見ていましたから、捕囚の人たちの深い悲しみを知っていました。それと同じことが南ユダ王国の人たちにも起こるとイザヤは、まるで捕囚の現場にでもいるかのように、ユダヤ人の悲しみを実感しています。彼らの苦悩はもちろん、異境の地にあって、経済的、社会的に大変な状況に置かれるということなのでしょうが、何よりも一番の理由は、神さまの沈黙でした。実際、イザヤが再び語り始めたその時代にも、自分たちの叫びが神さまに届いていないという、彼らの深い絶望が見られます。

 この時代は、神さまのメッセージを取り次ぐ預言者空白の時代でした。ミカやアモスといった北王国滅亡期の預言者たちがいなくなり、ナホムやゼパニヤ、エレミヤといった次期世代の預言者たちが登場するのは50-60年ほど経ったBC600年近くになってからです。そして、イザヤもまた沈黙していました。きっと民衆は、預言者の長い沈黙に、神さまと自分たちとの距離を感じていたのでしょう。ですからイザヤは、「呼ばわれ」(6)とそれを、自分に向かって語りかけられたと受け止めているようです。「私は『何と呼び掛けたらいいのでしょうか』と言った」(6) とは、そのように理解して訳したものでしょう。この「私」を全く別の第三者とする可能性もありますが、もしかしたらイザヤは、自分を含めた多数の預言者が立つことを願っているのかも知れません。現代の私たちもそう願いたいではありませんか。


V 見よ、あなたの神を

 「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(6-8) イザヤが語るように言われたメッセージです。この時代は、「自分の子どもたちに、異邦人よりもさらに悪いことを行わせた」(U列王記21:9)と言われるマナセ王の時代でしょう。それは、「マナセは、ユダに罪を犯させ、主の目の前に悪を行わせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血を多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった」(同21:16)とあるほどの時代でした。わずかに残っていた預言者たちや心ある人たちは、そんな時代を何とかしたいと願いながら、主に叫び求めたと思われますが、ここには神さまの怒りが聞こえるばかりです(参考・同21:10-15)。神さまの怒りの前では、現代の私たちも同様に、枯れゆく草や花に過ぎないでしょう。いや、現代の私たちこそ、イザヤ時代のユダヤ人以上にそんな者であると、イラク戦争や各地のテロ事件、そして連日報じられる暗い事件を見てそう感じます。自分の欲望のためなら、他人の痛みなど全く意に介しない、そんな時代にイザヤはどのようなメッセージを語ろうとしているのでしょうか。

 「だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」とあります。これこそ、最も聞かれなければならないことと思います。人が人を踏みつけ、裏切って争いが起こり、国が国に敵対して、より大きな殺し合いになっています。不満も憎しみも絶望も、神さまの升目を満たし始めているようです。21世紀は更に悪い方向へ進み始めたと感じますが、それは、破滅という終末への道を加速している最中なのでしょうか。破滅へのアクセルをいっぱいに踏み込んでいる私たちにとって、唯一方向転換出来る可能性は、永遠に変わることのない神さまのことばに聞くことです。イザヤは、神さまのことばをたずさえて来る人たちに「高い山に登れ」と励まします。「シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。『見よ。あなたがたの神を。』見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(9-11) 「良い知らせを伝える者」とは、福音書やパウロが言う通りにイエスさまの福音をたずさえる伝道者のことでしょう。

 福音とはグッド・ニュースですね。その中心をイザヤは、「見よ。あなたがたの神を」と言い切ります。神さまは私たちの神さまなのです。それがどんなに素晴らしいことなのか、考えて頂きたいのです。家々に祭られている仏壇や神棚の神仏ではない。天地を創造され、弱った私たちに力を与えてくださるお方(40章後半)、その本当の神さまが私たちの神さまであると宣言しておられるのです。「」で囲まれるのは、恐らく、神さまご自身のことばとして書き留めたからでしょう。その宣言は神さまご自身の宣言です。そのお方のことばに聞いていきたいですね。高い山に登って。力の限りを尽くして。