預言者の系譜
49  イザヤ・第一部(13)
主が味方なのだから

イザヤ書 37:14−38
ロマ書 8:31−39
T 主の力を知らずに

 第一部最後の部分、36-39章に入ります。この箇所は、イスラエル王朝史の公文書U列王記18-20章からの引用と言われますが、恐らくイザヤ書のほうが古いと思われます。原資料の一つと考えていいでしょう。

 「ヒゼキヤ王の治世第14年に、アッシリヤの王センナケリブが攻め上り、ユダの砦の町をことごとく占領した。アッシリヤの王は、ラキシュからラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。彼は布さらしの野に至る大通りに沿って上の貯水池から来る水路の傍らに立ち止まった」(36:1-2・新共同訳)と始まります。将軍ラブ・シャケ(副司令官?)は、かつてアハズがシリヤ・エフライム連合軍との戦いに備えて水の確保を図った、その同じ貯水池に陣を敷きます(7:3)。ヒゼキヤはそれを予想し、ギホンの泉から400mにも及ぶシロアム・トンネルを掘って、エルサレム市内に水を引き入れていました。それでも、エルサレムがピンチであることに変わりありません。ラブ・シャケが引き連れて来た軍隊は一個小隊だったようですが、しかし、エルサレムから40qほど南のラキシュにいるアッシリヤ軍本隊の力を背景に、将軍はヒゼキヤに降伏勧告を送りつけてきました。

 「今お前はエジプトというあの折れかけの葦の杖を頼みとしているのか」(36:6)「お前は『我々は我々の神、主に依り頼む』と言っている」(8)と、将軍は嘲ります。当時のエジプトは、エチオピヤ出身の強力な王が出た時代で、アッシリヤのパレスチナ進出を阻止しようとしていたようです。しかし、そのことよりも彼(ラブ・シャケ)は、戦って敗れたことがないという実績を持ち、その圧倒的な軍事力に過信して、イスラエルの神・主がどれほど力のを持つ方であるか、その情報収集を怠っていたのでしょうか。ヤハヴェの力を正しく評価出来ていません。彼は、ヤハヴェのことを、付近のカナン諸国の偶像の神々と同じ、力のないものと決めつけていました。そして、さんざんに神さまをののしるのです。


U 祈るところから

 「しかし人々は黙っており、彼に一言も答えなかった。『彼に答えるな』というのが、王の命令だったからである」(36:21) 彼の暴言を聞くと、ヒゼキヤは「自分の衣を裂いて、荒ら布を身にまとって、主の宮に」(37:1)入りました。それは、深い苦悩を持つ者が神さまの前に出ていく時の姿です。神さまだけが国を救う唯一のお方であると、彼の信仰なのでしょう。その軍勢と戦おうとは思っていませんでした。そして、イザヤに使いを送ります。「きょうは、苦難と懲らしめと侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、産む力がない。恐らく、あなたの神、主はラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主はその聞かれたことばを責められますが、あなたは、まだいる残りの者のため、祈りをささげてください」(37:3-4) そして「預言者イザヤは、祈りをささげ、天に叫び求めた」(U歴代誌32:20)とあります。その祈りへの答えなのでしょう。「あなたがたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼はあるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す」(6-7)と、イザヤのメッセージです。「うわさ」が何を指しているかは分かりませんが、その通りにセナケリブ王はアッシリヤに戻り、20年ほど経ってから、自分の子どもたちに暗殺されます。38節にその結末が記されていますが、神さまのことばは必ず実現すると、証しとして挿入されたのでしょう。

 37:9以後に再び降伏勧告が送られますが、それは、ヒゼキヤの援軍要請を受けてエジプト軍が出陣、両軍が地中海沿岸のエルテケ平原で会戦した結果、アッシリヤ軍が勝利し、今度は本隊そのものがエルサレムを包囲しました。その間の出来事だったのでしょう。頼みのエジプトが敗北し、アッシリヤ軍の包囲が数ヶ月にも及び、危機的状況は深刻さを増してきます。しかし、その中でも、ヒゼキヤの信仰はゆるぎません。包囲されて間もなくと思われますが、彼は神殿に入り、降伏勧告状を主の前に広げて祈りました。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。主よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々とその国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう」(16-20) この祈りは、アッシリヤからの救いを願うものですが、まず告白から始まります。神さまの前に立つ第一の姿勢は信頼の告白だと、その信仰姿勢に教えられるではありませんか。


V 主が味方なのだから

 そして、イザヤのメッセージが始まります。「イスラエルの神、主は、こう仰せられます。あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた」(21) 「あなたの祈りを聞いた」とこれは、最高の約束ではないですか。その約束が現代の私たちにもあると覚えたいですね。「あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ」(23)と、アッシリヤへの宣告は29節まで続いて、「あなたを、もと来た道に引き戻そう」(29)と締めくくられます。このことは、「彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。彼はもと来た道を引き返し、この町にははいらない」と33-34節にも繰り返されています。そして、その通りのことが起こりました。「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、18万5千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ」(36-37) それ以後、セナケリブの西方侵略は途絶えてしまったようです。

 30-35節は、エルサレムへのメッセージです。「あなたにそのことを示すしるしはこうである。今年は、落ち穂から生じた穀物を食べ、二年目は自然に生じたものを食べ、三年目には種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作り、その実を食べる」(新共同訳) これがどういうことか良く分かりませんが、戦争状態が続いて満足に収穫することが出来ない中、城壁内に蓄えたほんの僅かな食物と、敵が去った後に落ち穂から生えたものだけを頼りに生き延びることが、どれほどの神さまの恵みであるか、イザヤはそのことに注目して欲しいと願っているのでしょう。「のがれ残った者が」と繰り返されています。「万軍の主の熱心がこれをする」(32)「わたしはこの都を守り抜いて救う。わたし自らのために、わが僕ダビデのために」(35・新共同訳)と、神さまがどれほどご自分の民を惜しんでおられるかが伝わって来るようです。ダビデとは、メシヤを念頭に置いてのものと思われます。ご自分の名を冠ぶせたエルサレム(神の平和)は、救いを象徴するものでした。イエスさまがその都で十字架におかかりになったことも、決して、偶然ではありません。その救いが、アッシリヤへの裁きに結びついて語られています。こんなにもたくさんの記事がアッシリヤに向けられているのは、神さまがあらゆる困難を退けて、救いを完成してくださるというメッセージだと聞こえてきます。現代もそうではないでしょうか。30節のような神さまの大きな業が、今もないわけではないのです。しかし、それよりも、アッシリヤのような神さまを知らない世界がずっと大きく広く私たちを取り巻いており、そこからの救いが、ほんの間近に、確実に迫って来ていると聞こえるのです。イザヤが、「神もし我らの味方ならば、だれか我らに敵せんや」(ロマ8:31)と叫んだパウロに重なってくるではありませんか。