預言者の系譜
48  イザヤ・第一部(12)
贖われた者の賛歌に

イザヤ書 35:1−10
黙示録 21:27−22:5
T 敵対する者への怒りが

 イザヤ第一部・第3区分の最後です。先週、「そこに住む者は、だれも『私は病気だ』とは言わず、そこに住む民の罪は赦される」(33:24)と、53章にも匹敵するメシヤ預言のクライマックスを聞きましたが、今朝の34-35章にその高まりが続いていきます。イザヤがそのメッセージを語りながら何を聞き、何を見ようとしていたのか、私たちもそれを見ていきたいではありませんか。

 「国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け」(34:1)と、イザヤの強烈な宣言のことばで始まります。イザヤはここで何を宣言しようとしているのでしょうか。第一にそれは、神さまの民に敵対する者への審判であると聞こえてきます。2-4節には世界の諸国への審判が、そして、5-15節にはエドムへの審判が語られますが、それはエドムを代表とする全世界の不信仰者、神さまに反抗する者たちへの審判なのでしょう。エドムはヤコブの兄エサウを祖先とし、イスラエルの親戚と言ってもいい関係ですが、それが、ことごとくイスラエルに敵対する民族として登場してきます。単にイスラエルというだけではなく、神さまに敵対するすべての者に、エドムの名が冠せられているのです。そしてイザヤは、「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」(ゼカリヤ2:8)とある預言者独特の感覚を共有していましたから、神さまの民に敵対する者は、神さまご自身への敵対者だとして、その怒りが世界中の国々にも向けられているのです。それは、あの反抗者にして誘惑者、年を経た蛇と呼ばれるサタンと、それに組みする者であると言っていいでしょう。エドムは、そのような悪の存在に比せられています。その敵対者への審判が神さまの中で決定されたと、これはイザヤの第一の宣言であると聞こえてきます。

 その第一の宣言は、「天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は枯れる」(4)という恐ろしい状景とともに始まると言われます。それは明らかに終末なのでしょう。それは、現代人が考えているような、何十億年か先の地球や太陽の寿命ではなく、間近に迫った神さまの時であると聞かなくてはなりません。そして、その足音がもう聞こえるくらい近づいているのです。


U 愛が溢れて

 しかし、第一の宣言が「主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ」(2)と、神さまの激しい怒りが世界中を駆け巡る様子が語られるのですが、これが過去形になっているのは注目に値します。二つの意味が考えられます。一つは、その審判を神さまが決定されたという宣言、もう一つは、その激しい審判がいつまでも続いては行かないという宣言です。きっと、そのどちらの宣言も含まれているのでしょう。

 「主の書物を調べて読め。それらのもののうちどれも失われてはいない。……それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これを集めたからである。主はこれらのもののために受ける割り当てをくじで定め、……とこしえまでも彼らはこれを所有し、代々にわたって、ここに住む」(16-17)とあります。これは、神さまが主権者だとする預言者の宣言であり、彼の信仰姿勢なのでしょう。その主権者の審判の厳しさの前に、私たちはただひれ伏すだけであると、心して聞かなくてはなりません。しかしここには、それだけではなく、その厳しい審判の終了と、そして、主の救いに招かれる者たちの新しい始まりが語られているのです。詩篇にこうあります。「あなたはわたしのさすらいを数えられました。わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。これは皆あなたの書にしるされているではありませんか」(56:8)と。主権者なる神さまが、あらゆる困難を排除してやり遂げようとしておられることがあります。それは、私たちの救いを決定し、その愛を現わされることだと聞こえてくるではありませんか。

 その愛がいっぱい溢れているのが35章です。イザヤは第一部・第3区分を、神さまの溢れる愛で締めくくろうとしているようです。「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び楽しんで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る」(1-2)「荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり、潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる」(6-7) この繰り返しは、イザヤが何度もこの光景を神さまから聞いたからでしょう。この輝くばかりの美しい花園のような光景を、「そこの宮殿にはいばらが生え、要塞にはいらくさやあざみが生え、ジャッカルの住みか、だちょうの住む所となる。荒野の獣は山犬に会い、野うさぎはその友を呼ぶ。……」(34:13-)とあるような、神さまの激しい怒りから荒涼となってしまった風景と比べてみてください。これは、神さまの新しい世界の創造なのです。


V 贖われた者の賛歌に

 「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ。あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う」(3-6)「復讐が……」は、「敵を打ち、悪に報いる神が来られる」(新共同訳)となっています。 イザヤの目は、ずっと、このような人たちに注がれていました。彼らは、その弱さのために社会生活に適合出来ませんでしたが、それよりも、神さまの選びの民イスラエル社会から拒否されて、自分たちは神さまから遠く離れた者であると、そのことに深い絶望を味わっていたのでしょう。しかし、律法には、そのような人たちに優しくなければならないとあり、もともと、イスラエルは弱い人たちを大切にする民族でした。それが次第に、金持ちであったり、顔役であったりと、王や貴族に役立つ者だけが中心の社会に変わってしまい、弱者には居場所がないのです。それは、現代に至るまで人間の歩んできた方向ではなかったでしょうか。強者の世界、その傾向は現代も一層強まっているようです。福祉とは「施し」であると、そんな意識が見え隠れしています。本当は、神さまの祭司の民イスラエルが、そのような弱肉強食中心の人間世界に、神さまの優しさを示していかなければならない存在として選ばれた筈でした。それが失われてしまったのです。私たちも、神さまの優しさとは何であるかを考え直してみる必要があるようです。イザヤは、そのような人たちが神さまの御国に近いのだと、彼らに暖かい目を注いできたのでしょう。そして、その同じ目をイエスさまにも感じます。

 しかし覚えて頂きたいのですが、弱く貧しい人たちが、必ず御国に招かれるわけではありません。「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない」(8)と言われるのです。「贖われた者」は、「そこに住む民の罪は赦される」(33:24)とあった宣言がもう一度強調されているのです。そして、汚れた者や旅人や愚か者は、その罪が贖われていないと聞こえてきます。「ただ、贖われた者たち(だけ)がそこを歩む」のです。黙示録に「すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけがはいることができる」(21:27)とある、そんな光景をイザヤも見つめていたのでしょう。その都、救い主イエスさまとそこでお会いできる天国が、イザヤの目に映っていました。「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る」(9-10)とある様子は、黙示録の、イエスさまに迎えられて喜び歌う聖徒たちの姿に重なってくるではありませんか。そして、イザヤの目は間違いなく、自分も贖われてその救いに入りたいとする願いに溢れていたと感じられます。私たちの思いもそこに重ねていきたいですね。