預言者の系譜
47  イザヤ・第一部(11)
赦し、癒すお方が

イザヤ書 33:17−24
マルコ 2:13−17
T イザヤの目は何を

 今朝は33章からです。ここは時代の特定がむつかしいと言われますが、恐らく、アハズからヒゼキヤ時代への移行期(ヒゼキヤがアハズ王の執政だった頃?)に記されたのでしょう。メシヤ預言が一段と輝きを増してきます。「災いだ、略奪されもしないのに、略奪し、欺かれもしないのに、欺く者は。お前は略奪し尽くしたときに、略奪され、欺き終えたときに、欺かれる」(1・新共同訳)とある「お前」はアッシリヤのことと思われますが、この章では、アッシリヤがその大きな勢力を失って、歴史の表舞台から消えていく様子を語っているのでしょう。その記事は36-37章(U列王記19章にも)にありますが、簡単に触れておきたいと思います。ヒゼキヤの第14年に、アッシリヤが20万の大軍をもってパレスチナ諸国を陥落させながら、ついにエルサレムを包囲しましたが、ヒゼキヤは神さまに祈りました。そして、その大軍は一夜にして全滅し、僅かに残った者が命からがらメソポタミヤに逃げ帰った後、再びその隆盛を取り戻すことはありませんでした。「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、18万5千人を打ち殺した」(37:36)と記録されています。ところが、その記事に先立って、イザヤはこの章を神さまからのメッセージとして語るのです。このイザヤ書があとで編集されたことは間違いないでしょうが、その段階でも、アッシリヤ軍の敗退という事実より33章のメッセージが先なのだと、イザヤの意識がはっきりしているのです。恐らく、10年近くの時間差があると思われます。

 彼は、そのアッシリヤの衰退に主の民の救いを重ね合わせながら、ヒゼキヤの時代を飛び超えて、恐らく、終末の時代を語っていると感じられます。預言者イザヤの目が何を見つめようとしているのか、今朝はそのことを中心に、輝きを増していくメシヤ預言に焦点を合わせていきたいと思います。今朝のテキストにかかる前、2-3節はイザヤの祈り、5-6節はイザヤの信仰ですが、特に「あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である」(6)とある彼のメッセージは、インマヌエルの救いに招かれた私たちへのものであると聞こえてきます。 7-16節は滅びゆくアッシリヤの様子を語っていますが、これらのことは、この章を何回か繰り返し読んで頂くだけで十分でしょう。今朝はテキストから聞いていきたいと思います。


U 真の礼拝を行なう時が

 「あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。あなたの心は、恐ろしかった事どもを思い起こす。『数えた者はどこへ行ったのか。測った者はどこへ行ったのか。やぐらを数えた者はどこへ行ったのか』あなたは、もう横柄な民を見ない。この民のことばはわかりにくく、その舌はどもって、わけがわからない」(17-19)と、アッシリヤの大軍に囲まれた時の人々の恐怖が伝わってくるようですが、恐らく、それ以上の恐怖が言われているように思います。アッシリヤの兵士たちがエルサレム市内に入り込み、その住民に話しかけるような事態はなかったからです。外国人支配者がそのように住民に接触したのは、バビロンであり、ローマでした。しかし、バビロンの時もローマの時も、「麗しい王を見る」ということはなかったので、恐らく、これはもっと先の事柄、終末の光景なのでしょう。王とは主ご自身のことと思われます。そうしますと、「遠く広がった国(遠く隔だった地・新共同訳)」は神さまの御国なのでしょう。きっと、主の民たちは、まだそこに辿り着いてはいません。しかし、あなたの目は救い主とその御国を見つめていると、その目は、とりわけ、イザヤ自身が意識されているのではないでしょうか。「あなたは、もう横柄な民を見ない」(19)とこれは、アッシリヤや傲慢なイスラエル指導者たちが意識されてのことかと思いますが、現代の若者たちを見ていますと、「わけのわからない」ことばを話すのは、外国人だけではないようですね。

 「私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕エルサレムを見る。その鉄のくいはどこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。しかも、そこには威厳のある主が、私たちとともにおられる」(20-21) 「あなた」と「私たち」が入り混じっていますが、イザヤは自分が見ているものを一緒に見て欲しいと願っているのでしょう。イザヤの目は次第に、救い主とそのお方がもたらす新しい世界だけでなく、そこに招かれる人たちに注がれていくようです。シオンもエルサレムも、そこで執り行われてきた主への礼拝自体を指しており、祝祭と表現されているのは、心を込めてそれに加わった思いがイザヤの中に去来していたからでしょう。そんな礼拝が失われて久しいのですが、しかし、その心を込めた礼拝が戻ってくるのです。主ご自身がともにおられる礼拝が! ヒゼキヤのあとマナセ、アモン、ヨシヤと若くして王になる者たちが続きますが、ヨシヤ王の時に神殿から律法の書を発見し、それを朗読するところから宗教改革と呼ばれる信仰の復興が起こります。イザヤの信仰もその一因となったのではないかと思われます。


V 赦し、癒すお方が

 「威厳のある主が、私たちとともにおられる」(21)と、もう一度聞いておきたいと思います。「威厳」とは力強いこと。「そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない」(21)とイザヤは、エルサレムを広い大河に例えているのでしょうか。力強い主がいらっしゃるので、強い船が攻め上って来ても、そこを通ることは出来ないと言っているのでしょう。その川は平和なたたずまいを見せて、永遠に続くのかも知れません。エゼキエル書47章に、神殿から流れ出て大河になっていく聖なる川(力強い神さまの霊)のことが記されますが、もしかしたら、そのことが言われているのかも知れません。そこには、「川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も絶えることがなく、毎月新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる」(47:12)とあります。流れ出てくる神さまの霊は、私たちをご自分の瞳のように大切にしてくださる、大きく深い神さまの愛だと聞こえてきます。

 イザヤはその力強い主をこう証言しました。「まことに、主は我らを正しく裁かれる方、主は我らに法を与えられる方、主は我らの王となって、我らを救われる」(22・新共同訳)と。主の救いは正しい裁きも伴います。山上の垂訓でイエスさまが言われました。「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタイ5:22) ここには、地方裁判所や最高裁判所も取り上げてくれない弱い者の訴えを、神さまは聞いてくださると言われているのです。この世の不条理にも、もう泣き寝入りすることはないのです。「お前の船の綱はゆるみ、帆柱の基を固くすることも、帆を張ることもできない。そのとき、多くの戦利品が分配され、足の弱い者も獲物を奪う」(23・新共同訳)とある通りに、主の救いに招かれる者たちに敵対する者たちは、力を失っていくことでしょう。「戦利品」とか「獲物を奪う」とあるのは、現代の私たちとは違う社会状況があったためと理解して頂きたいのです。

 「そこに住む者は、だれも、『私は病気だ』とは言わず、そこに住む民の罪は赦される」(24)と、イザヤの預言はクライマックスを迎えます。イエスさまは私たちの病いをその身に負われたとマタイは証言しました。そして、また罪の赦しも第二部の中心に語られるメッセージですが、彼はここですでに、そのようなメシヤを見つめていたのでしょう(マタイ8:17)。主は私たちを癒し、赦されるお方です。イエスさまは「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)と言われました。イザヤのメッセージは、まさにそのお方を指し示しているではありませんか。