預言者の系譜
46  イザヤ・第一部(10)
祝福の足音が

イザヤ書 32:15−20
マタイ 13:18−23
T 神さまの正義は

 24章以降にイザヤは、神さまの救いに関わるいくつかの計画を語ってきました。そのいづれもが、世界中から集められる主の民であったり、弱く貧しい者たちであったりと、極めて直接的な、救われる者たちへの言及だったように思われます。そこには、「残りの民」或いは「わが民」と呼ばれる、イザヤの中心主題・インマヌエルが絡んでいると想像させられましたが、しばらくそのお方のことは断片的にしか現われず、私たちの目にはほんのわずかしか見えてきませんでした。それが、ここに来て、再びその中心主題に戻ってくるのです。32-35章までの第3区分最後の部分には、そのお方による救いが高らかに歌い上げられていると言えるでしょう。

 32章、33章、34-35章と最後の部分を3回に分けて見ていきます。今朝は、イザヤ書の中でも預言者のひときわ深い思想が込められていると評価の高い、32章を取り上げていきます。

 「見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる」(1)と始まります。「ひとりの王」とは来るべきメシヤ、そして、首長たちとはそのお方を信頼し、期待する者たちを指しているのでしょう。なぜなら、アハズ王の治世が不信仰により、あまりにも多くの失敗に彩られていたからです。そのアハズのことが念頭にあってイザヤは、メシヤとそのお方を主とする者たちの統治を、見事なまでに描き出そうとしているようです。その統治は「正義と公義によって」とありますが、アハズの時代に(現代もその時代に重なって見える)無きに等しかった神さまの「義(正しさ)」が、政治の基準となって行われると言うのです。逆に考えるなら、メシヤの統治が始まるまでは、北王国末期がそうであったように、無政府時代とも言える不法と混乱の時代が続くのだと聞こえてきます。今の経済不況といった事柄も、或いは、その現われなのかも知れません。神さまからいよいよ遠く離れていく現代、しかしこの預言者は、事態が悪くなればなるほど、神さまの正義の執行がいよいよ間近になって来ると、ここにイザヤの証言が聞こえます。きっと、その日が次第に足音高く近づいているのでしょう。

 そのお方を頼る者たちにとって、その日は希望と安らぎの時なのでしょう。私たちの正しさは、しばしば人を裁いて絶望に陥れますが、神さまの正義は、安心と慰めと豊かなうるおいを与えるものです。「彼らはみな、風を避ける所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、かわききった地にある大きな岩の陰のようになる」(2)


U イスラエルを荒廃させた者たち

 「しれ者」や「ならず者」のことが語られます。彼らは高貴な人や上流の人で、アハズ時代の指導者たちを指しますが、彼らは「飢えている者を飢えさせ、渇いている者に飲み物を飲ませない」(6)「みだらなことをたくらみ、貧しい者が正しいことを申し立てても、偽りを語って身分の低い者を滅ぼす」(7)と言われます。神さまの正義がない者たちは、貧しい者を平気で搾り取り、弱い者たちを踏み台にして肥え太っています。それは、現代人の在り方そのものではないでしょうか。

 ところで、指導者たちのことを糾弾している中に、どうしたわけかイザヤは、女性たちのことを差し挟んでいます。9-14節ですが、「のんきな女たち」や「うぬぼれている娘たち」への警告が語られます。新改訳のこの呼び方には少し抵抗があるのですが、適訳ではないかと思います。彼女たちのことが取り上げられるのは、恐らく、イザヤがずっと語ってきたイスラエル指導者たちの引き起こしている社会問題の重要な部分に、彼女たちも一枚噛んでいるからではないかと思われます。13-14節には美しい家々、都、宮殿、町、オフェル(エルサレムのどこかの丘につけられた名)、見張りの塔といった富裕な人たちの居住する場所が上げられていますから、恐らく、彼女たちは「高貴な人」や「上流の人」たちの妻や娘たちでしょう。彼女たちは、迫っている不安には一切目を向けず、ひたすら自分のことばかりにかまけきっています。彼女たちの関心事を探ってみたいのですが、ここには「ぶどうの収穫がなくなり」(10)「麗しい畑、実りの多いぶどうの木のために」(12)と繰り返されているので、彼女たちの最大の関心事はぶどうの収穫だったのでしょう。ぶどうはイスラエルの重要産物であって、彼女たちの裕福さを保ち続ける産業でした。そのぶどう園に「いばらやおどろが生え」と、収穫がなくなると宣告されます。度重なる戦争によって、手入れする人がいなくなっての荒廃かも知れません。そして、彼女たちが開いていたパーテイもまたさびれていくのです。


V 祝福の足音が

 今聞いてきた光景は、何もアハズ時代のイスラエルに限ったことではありません。ともすれば私たちも、「しれ者」や「ならず者」「うぬぼれて、自分のことしか考えない女たち」のように、傷ついた人を更に傷つけ、弱い人たちを踏みつけにしているのではないでしょうか。今の時代は、いよいよその傾向が強くなっているように思われます。しかし、人の心から愛が失われ、自分のことしか考えない風潮が広がるほど、そこに介入される主の手が間近いと、イザヤの宣言を聞いていきたいと思います。

 「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれる」(15)とあります。イザヤは、以前神さまから聞いたインマヌエルのメッセージを思い出しているのでしょう。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」(11:1-2)とありました。やがての日に、そのお方が神さまの救いのご計画通りにおいでになると、それは、語ってきたイザヤ自身が一番待ち望んでいた事柄ではないかと思われます。それから何年も経って、以前よりずっと悪くなってしまったイスラエルの状態を見て、きっとイザヤは、何度もその約束が遅いと感じていたのではないでしょうか。しかし今、改めて、イザヤに示されたものがメッセージだったのか、或いは幻だったかのかは分かりませんが、そこで彼は、救いの実現への確信を与えられたのです。これは、預言者の高らかに歌い上げた主の救いの宣言なのでしょう。

 「荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和は住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む」(15-18) これはイザヤの宣言ですが、未開拓の荒野に神さまの手が加わり、もともと神さまがお造りになった自然までが、新しい創造の秩序へと造り変えられていくのでしょう。終末の神さまの御国は、神さまが新しく創造されるであろう新世界なのです。それは公正と平和と安らぎであって、イザヤが味わってきた不信のイスラエルとは全く違う世界であると彼は感嘆しつつ、その様子を描き出しているようです。彼の黙示録はまだ終わってはいません。

 しかし、そこに至る前に、まだなお吹き荒れる悲しみがあります。「―雹が降ってあの森を倒し、あの町は全くいやしめられる―」(19) 棒線で囲まれているのは、後代の挿入であろうとする意見が多いためです。しかし、恐らくイザヤ自身のものでしょう。あの森やあの町がどこを指すのか分かりませんが、神さまの御国が出現する前に、しばらくは、不信仰者たちへのさばきが、或いは、私たち信仰者の産みの苦しみが続くのでしょう。私たち自身のことを考えても、解決しておかなければならないことが山ほどあって、信仰の戦いがまだまだ続いていくと覚悟しなければならないでしょう。しかし、主の祝福の約束は確実なのです。「ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばとを放し飼いするあなたは」(20)と。また、 同時にイエスさまの祝福が聞こえてきます。「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、るものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます」(マタイ13:23)