預言者の系譜
45  イザヤ・第一部(9)
主が働いてくださるから

イザヤ書 30:18−26
ヘブル書 12:1−4
T 神さまの悲しみは

 イザヤ書第一部の内容区分は3部構成になっており、第3区分24-35章には、24-27章の「イザヤの黙示録」も含め、いくつかの神さまの救いの計画が語られています。先週はその中の28-29章から、選民イスラエル、特に指導者たちが疎外してきた、近隣諸国の人々、貧しい者、弱い者たちへの救いを聞いてきたのですが、今朝は、その続きとも言える30-31章からです。

 「ああ。反逆の子ら」(30:1)と、まだしばらくイザヤの哀歌が続きます。「反逆の子ら」とは、イスラエルへの叱責であり、そこにイザヤの深い嘆きが感じられますが、反面、どんなに彼らが逆らっても、神さまはまだ、彼らとの父子の関係を捨てようとはしていないことを示しているのでしょう。神さまの悲しみは、それほどまでに深いと聞こえてきます。「彼らはわたしの託宣を求めず、エジプトへ下って行き、ファラオの砦に難を避け、エジプトの陰に身を寄せる」(2・新共同訳) 多分、まだアハズの時代と思われますが、すでに北王国は滅亡しているのでしょう。そして、彼らを滅ぼしたアッシリヤが、今度は南王国への侵略を企てています。その圧迫から逃れようと、イスラエルは、今度はエジプトとの同盟に走っていきます。しかし、すでにエジプトは、往時の強大国の面影を失っており、パレスチナに出兵出来るだけの力も意志もありません。「その国は助けにならず、益を与えず、恥と嘲りの種になるだけだ」(5)と、同じメッセージが31章にも繰り返されています。「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる」(31:3)と、31章は30章の内容を繰り返すことで、イザヤのメッセージを強調しているようです。そんなエジプトが、ただ昔の誇りにしがみつき、貢ぎ物だけは受け取っています。「彼らはその富をろばの背に、宝をらくだのこぶに載せて赴く」(6)と、そのエジプトへの使者が辱められて戻って来たのでしょう。イスラエルの指導者たちは、それでもまだ神さまに目を向けようとはしません。「私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ」(10-11)と。


U 神さまに立ち返ることを

 彼らに対する宣言です。「イスラエルの聖なる方はこう言われる。『お前たちは、この言葉を拒み、抑圧と不正に頼り、それを支えとしているゆえ、この罪は、お前たちにとって高い城壁に破れが生じ、崩れ落ちるようなものだ。崩壊は突然、そして瞬く間に臨む」(12-13・新共同訳)と、非常に厳しいイスラエル破滅の宣告ですが、少し思い出して頂きたいのです。7章から始まったイザヤのメッセージは、神さまを無視するアハズとその取り巻きに対するものでしたが、意外なほど彼らへの叱責がなく、「インマヌエル」なるお方による救いの恵みに浴して欲しいという、神さまの忍耐と恩寵を語ることばに溢れていました。その中心が、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません」(7:4)であると聞いてきたのです。それは「静まりて、我の神たるを知れ」(詩篇46:10・文語訳)とあるように、彼らの信仰が問われていたと聞かなければなりません。この「静まりて」は新改訳には「やめよ」とあって、ある時には陰謀を、ある時には戦いを、なのです。そして、襲いかかる不幸や困難を嘆き、恐れて騒々しく右往左往し、せっぱ詰まってあれこれと画策し、アッシリヤやエジプトに助けを求めるようなことが、彼らだけではなく、現代の私たちにもしばしばあるのではないでしょうか。そんな一切のことを「やめよ」、そして「神さまの前に静まれ」と、聞かなければならないのです。

 イザヤは神さまの忍耐を自分にもと、言い聞かせていたのかも知れません。アハズへの最初のメッセージ(7章)から何年も経って、突如、それまで封印していた思いが吹き出したかのように、彼らへの罪の告発と、非常に厳しい破滅の宣告を語り始めます。罪の告発と救いのメッセージが、イザヤの中で一つの思いとなって同居していたのではないでしょうか。この預言者の真骨頂とも言える「静まれ」のメッセージが再び語られます。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る」(15) この「落ち着いて」も「静かに」と同じことばであって、イザヤは、神さまの前に静まって信頼していることこそ、何者にも脅かされることのない平安であり、救いであり、力なのだと繰り返し強調しているのでしょう。「立ち返って」なのです。罪が糾弾されるのは、神さまに立ち帰ることが求められていると聞かなければなりません。罪から離れることなしに、救いはあり得ないのです。私たちは、どれほど自分の中にある罪を厭い、そこから離れようともがいたでしょうか。いみじくも、ヘブル書の記者はこう言っています。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」(12:4) しかし、弱い私たちのために、イエスさまがおられるのです。その十字架の赦しを、もう一度かみしめたいと思います。


V 主が働いてくださるから

 「それゆえ」(18)、このことばには、罪の告発と救いを結びつけるイザヤのメッセージが浮かび上がっているように感じられます。「主は、あなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は公平(口語訳)の神であるからだ」(18) 神さまが待っておられるのは、自分を正しいとする者ではなく、神さまを見失い、苦しみ悲しんでいる人たちでしょう。罪を犯した履歴など関係なく、そこからどう立ち直ろうとするかが問われているのです。「それゆえに」神さまは忍耐して待っておられると、イザヤはここに、彼の託された希望のメッセージを心を込めて語ったのでしょう。

 「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる」(18-19) 19節最初の部分は、「まことに、民はシオン、すなわちエルサレムに住む」と訳したほうが良いとする人もいて、シオンもエルサレムも「神さまの住まい」を意味していると聞こえてきます。ここに語られる救いは、直接にはイスラエルの残りの民へのものなのでしょうが、それよりももっと大きな広がりをもって、悔い改めと信仰をもって主を求める者たちへの約束であると聞こえてきます。彼は、24-27章の黙示録ばかりにではなく、インマヌエルのメッセージにも、その目が「全世界」を見つめていると聞いてきました。そして、そのイザヤの目が、現代の私たちの時代にまで、次第に大きく見開かれているように感じられるのです。ただ、「私たちはまやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきた」(28:15)と嘯き、「私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ」(30:11)と神さまに反抗し続ける者たちについてはどうなのでしょうか。

 「たとい主があなたがたに、乏しい(悩みの・口語訳)パンとわずかな(苦しみの・同)水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」(30:20-21) 教師とは神さまご自身のことです。恐らく、私たちには苦しく、辛いことが待ち受けているのでしょう。しかし、主ご自身が私たちを教え、導いてくださいます。そして、「主がその傷を包み、その打たれた傷をいやされる日」(26)が来るのです。月の光は日の光のように……とありますが、7倍は神さまの創造の完全なることを現わします。救いが完成するのです。イザヤ書の終わり近くで語られたメッセージにこうあります。「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために黙りこまない」(62:1) 「黙る」とは「静まる」と同じことばです。どうか、神さまの救いの約束に信頼して、どんなに大変な時にも静かにして祈ることを覚えて頂きたい。それが信仰に立つ生き方でしょう。神さまが私たちの救いのために働いていてくださるからです。