預言者の系譜
44  イザヤ・第一部(8)
預言者の目はだれに

イザヤ書 29:15−21
マタイ 11:2−6
T 何に浮かれてか

 イザヤの8回目ですが、第一部も残り少なくなってきました。この辺りで第一部の内容区分をしておきましょう。大雑把にですが、1-12章がユダとエルサレムの審判の預言、13-23章が諸外国への託宣、24-35章が救済の預言と3部構成になっているようです。36-39章はU列王記18-20章からの引用がおもで、それは3部構成の枠外と見ていいでしょう。先週は、この第3区分(24-27章)から「イザヤの黙示録」と呼ばれるところを見ましたが、そこには、終末時に神さまが全世界の人たちを救いに招き、神さまの前に感謝と賛美が沸き上がる光景が語られていました。主は真実を込めて私たちに接しようとしておられ、その主の真実に、私たちはどのように信仰の応答をするのでしょうか。一つは救い主を証しすること、そして、そのお方に向かって心からの礼拝を献げることであると聞こえてきます。

 第3部の残り28-35章には、いくつかの主の救いのご計画が明らかにされています。何回かに分けながら、そこに語られるイザヤのメッセージを聞いていきたいと思います。今朝は28-29章です。

 「エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ」(28:3)と、ここは、北王国に対するイザヤの宣告から始まります。それは恐らく、アハズの宮殿で開かれた宴会の席上で語られたものでした。アッシリヤとの同盟が功を奏し、エルサレムを攻撃していたシリヤ・エフライム連合軍が、一転して背後からアッシリヤ軍に脅かされます。そのための祝杯だったのかも知れません。きっと、そのメッセージを聞いていた南王国の高官たちは、喜んで祝杯を重ねたことでしょう。しかしイザヤの目は、滅びつつある北王国ではなく、今、宴会で浮かれている南王国の高官たちに向けられていました。彼らの指導者とは言えないような醜態が糾弾されます。「彼らもまた、ぶどう酒を飲んでよろめき、濃い酒のゆえに迷う。祭司も預言者も濃い酒を飲んでよろめき、ぶどう酒に飲まれてしまう。濃い酒のゆえに迷い、幻を見るときよろめき、裁きを下すときつまづく。どの食卓もに吐いた物が溢れ、至るところに汚物がある」(28:7-8)と。幻を見る者とは、彼らの太鼓持ちに成り下がっている偽預言者、裁きを下す者とは、祭司や長老たちなのでしょう。何に浮かれてか。彼らは、自分の職務さえも放棄して、民の前にも、また神さまの前にも正しく立とうとはしません。


U 預言者の哀歌が

 しかし彼らは、そのように厳しく非難されながら、まだ若い預言者の言うことを本気にしようとはしません。「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか」(9) 俺たちは赤ちゃんではないと嘯いている彼らの虚勢が浮かんできます。10節で彼らが言い、13節でイザヤが皮肉たっぷりに繰り返すことばが面白いですね。「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ。カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ」(新共同訳)たいした意味もないことばを、酔っぱらいがぶつぶつつぶやく様子が目に見えるようです。これは「戒めに戒め、規則に規則」という意味で、イザヤが語る神さまのメッセージが、彼らにはただ口うるさいものとしか聞こえなかったことを指しています。このことは、現代の私たちも十分に気をつけなければならないことでしょう。ともすれば、聞くメッセージが神さまのことばではなく、それはただ、自分たちの自由を束縛するものと感じてしまうことにもなりかねないからです。彼らは、神さまに頼ることが心許なく、アッシリヤと手を結び、その束の間の安全でも、神さまよりましと考えているのでしょう。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避けどころとし、偽りに身を隠してきたのだから」(15) 日本政府が強いアメリカと手を結んできたのも、そのようなことなのでしょうか。

 「見よ。わたしはシオンに、一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない」(16)と、イザヤはここでもインマヌエル・救い主のことを語っているのでしょう。これはパウロ(ロマ9:33)とペテロ(T2:8)によってイエスさまのことであると引用されていますが、これと良く似たことばが詩篇にあって、そこには「家を建てる者たちの捨てた石、それが礎の石になった」(118:22)とあります。これもイエスさまのこととしてマタイ(21:42)が引用していますが、「家を建てる者たち」がこのイスラエルの指導者たちに重なるのです。

 29:15に「ああ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らはやみの中で事を行ない、そして言う。『だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう。』と」(15)と言われる者たちは、そのような者たちでした。28章から33章にかけて、「ああ」という嘆きの感嘆詞が何回も繰り返し語られますが、これは、イザヤ自身が彼らイスラエル指導者たちと同じであったという、彼の痛みとして伝わって来ます。28章最初の北王国滅亡の宣告も含め、これはイザヤの哀歌と聞こえて来るのです。


V 預言者の目はだれに

 「陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、『彼は私を造らなかった』と言い、陶器が陶器師に『彼はわからずやだ』と言えようか」(29:16)とイザヤは、彼らは神さまに造られた者であるのに、彼らはそれを断じて認めようとしないと嘆きました。まさに、「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている」(29:13)とある不信仰ぶりなのです。それは、私たちも心しておかなければならないことでしょう。

 しかし、神さまを見失い、暗やみに等しいところを歩んでいる者たちの中に、イザヤの耳には、神さまを喜び、楽しむ者たちの声が聞こえてきます。17節は新共同訳のほうが分かりやすいでしょう。「なおしばらくの時がたてば、レバノンは再び園となり、園は森林としても数えられる」 レバノン山脈は、レバノン杉という古代東方世界最高の建築材産地として知られており、ソロモンも神殿建設にこれを輸入していました。そこは未開墾の森ですが、その美しい自然に、更に、神さまの手が加わえられて実り多い果樹園に造り変えられると言われるのです。それは、もともとシリヤの一部であったレバノンが、イスラエルに敵対する者として、神さまから遠く離れていた筈なのに、そのようなところさえ、神さまの祝福を頂いて、感謝と賛美の器とされていくのだと聞こえてきます。

 「その日、耳しいた者が書物のことばを聞き、盲人の目が暗黒とやみの中から物を見る。へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しむ」(18-19) これは、「書物(恐らく預言のことば)」とあるところから、イスラエルという神さまの選びの民の社会から疎外された者たちと考えられますが、彼らは何よりも、神さまのことばから遠ざけられていたのです。召命を受けた時イザヤは、「その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために」(6:10)と、預言者として語るべきメッセージを聞きました。救いのメッセージを、彼らイスラエル指導者たちが聞くことがないように拒んだのです。「聞くべきことを、真に聞こうとするかどうかが重要」と言った人がいます。その通りでしょう。彼らは自分たちお抱えの偽預言者たちから聞き、それを神さまへの信頼であると欺瞞に満ちていました。20節にある「横暴な者、あざける者」とは「うわさ話で他人を罪に陥れ、城門でさばきをする者のあげあしを取り、正しい人をむなしい理由でくつがえす」(21)とあるところから、恐らく、祭司や預言者(28:7)を含みます。神さまに信頼し、静かにして福音に耳を傾ける者は誰なのか。彼らに代わって、彼らが疎外してきた外国人や弱い者たちが、神さまの民に加えられるのだという預言者の宣言が聞こえます。私たちも、そのような傷ついた者ではなかったでしょうか。イエスさまの目は、そのような者たちに向けられ、イザヤがイエスさまに重なって見えるようです。