預言者の系譜
43  イザヤ・第一部(7)
神さまの真実に

イザヤ書 26:20−21
黙示録 21:1−4
T イザヤ黙示録

 イザヤ書13-23章は、諸外国へのメッセージです。しかし私たちには、モアブやダマスコがどうなるのかといったことに、恐らく、それほどの興味はないでしょう。これらはきっと、長い時間をかけて神さまから聞いたことを後にまとめ、編集したものです。そのような外国にまで関心を寄せた預言者はそう多くはないので、これもまた預言者イザヤの大きさを感じさせるところですが、今回、ここはスキップしたいと思います。

 今朝は、「イザヤの黙示録」と呼ばれる24-27章からです。黙示とは「覆いを取り払う」という意味で、多くは啓示と訳されていますが、その啓示の中で、終末や神さまの御国の状景を特殊な表現で書き綴ったものが「黙示」と呼ばれているようです。黙示録或いは黙示文学と呼ばれるものは、新約にヨハネの黙示録、旧約にエゼキエル書やダニエル書などいくつかあって、ほとんどがペルシャ以後のものですが、イザヤのこの箇所は、その黙示文学のごく初期のものと考えられます。

 ところで、イザヤが語る神さまの救いのご計画には、一つの道筋がありました。それは、アハズ王に対する神さまの勧告と怒りから始まります。シリヤ・エフライム軍の攻撃におびえる彼に、「神さまに信頼して静かにせよ」(7:4)というメッセージ、そして、インマヌエルと呼ばれる救い主の約束(7:14)が語られますが、アハズは、そんなイザヤの勧告を聞こうとはせず、あくまでもアッシリヤに依存してこの難局を切り抜けようとする政策に固執し、ついに、アッシリヤによる圧迫が始まりました。恐らく、シリヤ・エフライム連合軍やアッシリヤの攻撃も、U歴代誌28章にあるペリシテ人など周辺諸国のイスラエル乱入も、イスラエルの罪に対する神さまの裁きを具体的に示すものだったのでしょう。神さまの裁きは第一にイスラエルに向けられ、24:1に「見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる」とあるのは、そのことでしょう。ところが、神さまに反抗する者たちは、イスラエルだけではないのです。世界中のあらゆる国々、あらゆる人々も同様であるとイザヤの目に映っていて、13-23章に諸外国へのメッセージが語られたのは、そのような彼の預言者の目をもってなのでしょう。このイザヤの黙示録には、イスラエルと全世界の民たちへの裁きが、そしてまた、神さまの救いを頂く残りの民のことが語られるのです。


U やせ衰える現代

 恐らく、24:1-13は南王国への神さまの裁きが言われています。そして、27章に「その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する」(13)とイスラエルの回復が語られ、この黙示録が締めくくられるのです。しかし、その中心の部分は「彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ」(24:14)と始まって、そこから25-26章とそのほとんどが世界中の人たちによる神さまへの賛美になっています。この黙示録は、終末が全世界への広がりを持つという預言者のメッセージなのでしょう。その中から、とりわけ現代へのメッセージが強く聞こえてくるようです。

 「私はだめだ、私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者は裏切り、裏切る者は裏切り、裏切った」(24:16) 終末は、その大半がどろどろした暗い世相の渦巻く時であり、そこに僅かな人たちの賛美と平和があるということなのでしょう。「私はだめだ」これは「私はやせ衰える」(口語訳)と、ここだけに出てくることばですが、だんだん収穫が少なくなって、世界中が不況に巻き込まれている今の経済状況を指しているのではないかと思われます。「裏切り」と5回も繰り返されることばは「欺き」(口語訳・新共同訳)であって、神さまのいない者たちのどこまでも堕落していく現代の様子を物語って余りあると聞こえてきます。きっとその日には、「地の基が震え、地は裂けに裂け、ゆるぎにゆるぎ……」(24:18-19)とあるように、天変地変といった災害も起こるのでしょうが、神さまの裁きとしての終末は、何よりも人間同士の不信から引き起こされていくと聞こえて来ます。経済的不況も、拡大しているあちこちのテロや紛争も、これまで神さまなしとエゴーに生きてきた者たちの、その生き方の刈り取りをしている姿と思われてなりません。

 「あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされた」(25:2)「主はあなたの城壁のそそり立つ要塞を、引き倒して低くし、地に投げつけて、ちりにされる」(12)とあります。少し前に、天王寺の美術館に、高松の知人が出展した「サイレント・ワールド」という絵のことを紹介しました。それは、現代を無機質で表情のない死者の世界として描いたものでしたが、その舞台が都会だったことに象徴的な意味を感じます。悪が満ちていくところは、如何にも繁栄をもたらすかに見える都市という虚像であり、現代は、その虚像を求めて都市化していく私たち自身なのではないでしょうか。


V 神さまの真実に

 しかし、そこに神さまの救いが用意されていることを忘れてはなりません。世界60億人のほとんどが悪の巣窟である都会化に走ろうとも、その中で、「わが民」(26:20)のために、「あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ」と言われるのです。この「わが民」は、イザヤが彼のメッセージの主題にしてきた「残りの民」なのでしょう。ちょうど、エジプトを脱出する時のイスラエルのように、子羊の血をかもいに塗った彼らの家々を、それは「わが民」の家であると、神さまの怒りが過ぎ越されたことに重ね合わせているようです。預言者のこのメッセージを聞き、私たちもその備えをしておかなければなりません。

 なぜなら、神さまが「ご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はその上に流された血を現わし、その上で殺された者たちを、もう、おおうことをしない」(21)と言われるその時が近づいていると思われるからです。終末の出来事は、神さまが私たちの罪を糾弾されることから始まるのでしょう。十字架にかかられる直前に、イエスさまは弟子たちに終末のことを語られました。その時彼らは、「不法がはびこるので、人々の愛が冷えていく」と、愛が失われるところから終末が始まると聞きました。その状況が、今現在、私たちのところでより具体化していると感じられます。終末が、イザヤの時より、弟子たちがイエスさまから聞いた時より、ずっと近づいているのは確かでしょう。或いは、すぐ目の前に来ているのではないかと感じられるのです。

 イザヤのこの黙示録は、確実に、その時が来るという宣言に聞こえます。そしてその日、罪ある者は神さまの裁きの前に立たなければならないのです。その備えをせよと、「部屋にはいり、うしろの戸を閉じて、身を隠して」おくようにと聞こえます。その部屋のかもいには、イエスさまの十字架の血が塗られています。「あなたは遠い昔から不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました」(25:1)とイザヤは賛美しました。不思議とあるのは「驚くべき」(新共同訳)、忠実とは「真実」(同)と聞いたほうが良いでしょう。イエスさまの十字架による救いのご計画は、モーセの昔に、いや、もっともっと昔にまで遡るのですが、これは実に驚くべきことです。しかも、その救いに神さまは、「あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられた」(27:12)とその真実を示しています。それほどの神さまの真実に、私たちはどのように応えたらいいのでしょうか。「エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する」(13)とあるように、心からの感謝と賛美を献げていくことでしょう。「部屋にはいり」とありました。その部屋は、一緒に礼拝しようと集まる私たちの真実・信仰を込めた教会であり、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」(ヨハネ黙示録21:3-4)と言われる神さまの御国に迎え入れられる希望なのです。