預言者の系譜
42  イザヤ・第一部(6)
感謝しつつ主への賛美を

イザヤ書 12:1−6
マタイ 28:19−20
T わが魂を主は

 これまでイザヤは、神さまの救いのご計画を、とりわけ、その中心主題としてのインマヌエルと呼ばれるお方・メシヤのことを語ってきました。その方の前に信頼して静まること、それが襲いかかる危機を逃れる、唯一の確実な道であると語ってきたのです。イザヤは救い主メシヤを指し、しかし、その救いは主からのものであると、しばしば彼は、インマヌエルとヤハヴェの区別をしていないかのように感じられます。ある人がインマヌエルを「神の代理人」と呼んでいますが、恐らくイザヤにはそれ以上の存在、神さまがご自身を現わされたものと感じているようです。「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる」(11:11)と、そんなイザヤの思いが伝わってきます。12章は、そんなインマヌエル預言の最後をふさわしく飾るところです。

 「その日、あなたは言おう」(1)と始まりますが、まず、二つのことを確かめておきたいと思います。一つは「その日」ということです。これは、7章以降にインマヌエル・メッセージと結びついて何回も繰り返されており、終末を意識しての「日」なのでしょうが、面白いことにこれは、早い時期の7章のメッセージで、イスラエルの裁きと破滅を指す日として用いられ、10:20節以降の遅い時期のメッセージでは、神さまの救いがもたらされる日として用いられます。恐らくそれは、イザヤ預言の根底に流れているものが、希望であると伝えているのでしょう。その意識は12章にも続いています。そしてもう一つは、「あなた」ということです。イザヤはこのメッセージを弟子たちに託して、エルサレムなどの街角で民衆に語らせたものと思われますが、13-23章に「諸外国への託宣」がまとめられているところから、イスラエルだけではなく、現代の私たちをも含め、残りの民へのメッセージとしたのでしょう。しかもそれは、一把ひとからげの「あなたがた」に向かってではなく、私たち信仰者の一人一人に呼びかけるように「あなた」と言い、イザヤがたった一人で神さまに呼び出され、取り扱われたという思いと重なってくるのです。「あなたの」救いの日に、あなたがどうあって欲しいのか、これが12章全体に流れる中心主題のように聞こえてくるではありませんか。


U 主の救いに私たちも

 新改訳では、カギ括弧が1節だけで閉じられ、1節と2節、2節と3節の間が途切れています。しかも、3節と4節が隙間なく続いていきます。それでは何のことか良く分かりませんので、新共同訳のようにカギ括弧の中味を2節まで伸ばし、1節から3節までを1つの段落と見ていきたいと思います。「その日には、あなたは言うであろう。『主よ。わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが、その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。見よ。わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌。わたしの救いとなってくださった。』あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む」(1-3・新共同訳) 第一の段落です。

 ある人が、「あなた、会衆の一人一人が、神が怒りを回避されたばかりか、慰めをもって臨まれたと、感謝を言い表すように促されている」と言っていますが、まさにその通りでしょう。「怒りを回避された」とは、40章以降のイザヤ第二部で扱われる中心主題です。メシヤは罪を贖う者となってくださると、彼はそれを念頭に置いているのでしょう。救いは、神さまご自身の愛と犠牲から出ると覚えたいのです。ですからこれは、主の民の感謝と賛美の声であり、そこに私たちも連なると聞いていくのです。2-3節に、救いということばが3回繰り返されています。イザヤのその名前の意味は、「主は救い」です。彼は自分の名前を意識しつつ、主への賛歌を高らかに歌い上げているのでしょう。「わたしを救われる神」とありますが、これは、死海写本に「神はわが救いの神」とあるそうで、それがもともとの言い方のようです。イザヤは、いくら感謝しても感謝しきれない思いを、神さま、神さま、神さまと何回も繰り返しているのです。「主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7)と聞いて、ユダヤ人はヤハヴェ(主)という4文字の発音を忘れてしまい、それに適当な母音を当て嵌め、エホバと読んだことは良く知られています。しかしそれは、宗教的な儀式として、呪文のように唱えてはならないということであって、むしろ、幼子が「お母さん、お母さん」と呼ぶだけで、その思いが母親に伝わっていくように、時には、生き生きとした信仰の中で、私たちの思いを「神さま、神さま」と叫ぶことに込める単純さが必要と知らされるのです。学生時代にアルバイトで、車の事故に会い命拾いしたことがあります。その時、「神さま有り難うございます」と繰り返すことばしか出てきませんでした。神さまがくださったいのちだから、神さまのために使おうと献身の思いを新らたにさせられたことを思い出します。「あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む」 神さまの救いがそれほどの喜びであると、果たして、現代の私たちは受け止めることが出来るでしょうか。


V 感謝しつつ主への賛美を

 もう一つの段落からです。「この日、あなたがたは言う。『主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主にほめ歌を歌え。主はすばらしいことをされた。これを全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方』」(4-6)

 最初に一つのことを覚えたいと思います。1節で、「あなた」と呼びかけた預言者は、その段落の終わりで「あなたがた」と通常の呼びかけに戻り、その呼びかけをこの後段落に繋げているのですが、この感謝の賛美に加わるべき者たちが、救いに招かれる私たちすべてだと明らかにしているのでしょう。そして、その感謝には、神さまの救いにあずかる、全世界の更に多くの人たちをも加えていくようにと、そんなイザヤの期待が伝わってきます。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせよ」(4節・新共同訳)「これを全世界に知らせよ」(5節・新改訳)とあるのは、直接には、彼の弟子たちへのものでしょうが、イザヤはこれを、彼らを飛び越え、現代の私たちにも語っていると聞こえてきます。私たちは、福音宣教がイエスさまのご命令であると受け止めますが、それは、神さまを賛美する人たちを私たちの周りから一人でも多く、と聞いていくことなのでしょう。

 最後に、「主に感謝せよ」という、ここの中心主題から聞いていきたいと思います。これを聞いて、詩篇を思い出します。「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」(136:1)や「ハレルヤ」(146:1)など、詩篇には主への感謝を礼拝賛美にしているものが多いのです。そのような礼拝はバビロン捕囚以後と言われ、ですからこの部分は、後の時代の加筆であろうとする人もいるくらいですが、イザヤが主催する預言者集団で、それに近い礼拝が行われていたのかとも想像するのです。或いは、それが詩篇などの礼拝賛美の一つの原形になったのかとも想像します。ヘンデルのメサイアにある「ハレルヤコーラス」をご存じと思います。これを聞くとき起立する習慣がありますが、1743年ロンドンでの初演の時に、国王ジョージ2世が感激のあまりに起立したところから始まったと、余りにも有名な話です。ハレルヤの「ヤ」は神さまのこと、ハレルは「賛美せよ」。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤと何十回も繰り返されていきます。それほど私たちが御前で感謝し、大声をあげて喜び、賛美を献げていくお方、そのお方は「イスラエルの聖なる方は、あなたたちのただ中にいます大いなる力」(6・新共同訳)と言われるインマヌエルなのです。ここに、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と、イエスさまのお声が聞こえてくるようです。私たちの救い主に、ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤと、心からの賛美を献げようではありませんか。