預言者の系譜
41  イザヤ・第一部(5)
インマヌエル、その御国に

イザヤ書 11:1−10
マルコ  1:14−15
T 恵みの翼を

 先週7章で、「インマヌエル」と呼ばれる男の子が生まれると、メシヤ預言を聞いてきました。そのお方はイエスさまですが、イザヤは、始動し始めた神さまの救いのご計画を伝える証人として、先駆者になったのです。そのインマヌエルに関するメッセージが続きます。今朝は、そのお方のことを、繰り返し語りながら明らかにしようとする、イザヤの証言から聞いていきたいと思います。

 「インマヌエル。その広げた翼は、あなたの国の幅いっぱいに広がる」(8:8)と、第一の証言です。アハズが、「神さまに信頼して静かにしていなさい」(7:4)というイザヤの勧告を聞き入れなかったために、恐らく、少し時間をおいた後に、イザヤはこれを弟子たちに語ったのでしょう。アハズが同盟を求めたアッシリヤは、シリヤ・エフライム連合軍の背後から襲いかかり、ダマスコを陥落させますが、そのアッシリヤがアハズに貢ぎ物を要求してくるのです。イザヤは8章で、そのようなアハズ王朝の危機的状況に言及し、その中で、もう一度インマヌエル・神さまがともにおられるお方が、その恵みの翼をいっぱいに広げると語ります。しかし恐らく、イザヤの目は、当面の脅威ではなく、もっと先を見つめていました。「このおしえを、弟子たちの心のうちに封ぜよ」(16)とあります。彼は、やがて訪れるであろうユダヤの絶望的危機の時に、「神が私たちとともにおられる」(10)という救いの約束をしっかりと受け止めて欲しい、これを神さまのことばとして聞いて欲しいと願ったのでしょう。やがて、後の預言者たちがこのメッセージを継承することになります。

 このメッセージは、同じ状況下で9章7節まで続き、その最後に、インマヌエル第二の証言があります。「異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(9:1-2) これはイエスさまのことであるとマタイが引用します。イエスさまの弟子たちの多くがガリラヤ出身というのは偶然ではないでしょう。その「光なるお方」への証言です。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで」(6-7)


U 救いのご計画が

 ある人が、このガリラヤは、アッシリヤがシリヤ、エフライム連合軍を背後から襲った時、切り取られた領土の一部であろうと推測しますが、可能性は高いでしょうね。しかも、その地は間もなく、北王国滅亡とともに多くの異邦人が入って来て、雑婚が行われ、自分たちはヤハヴェの民イスラエルであると意識しながらも、異邦人の地となってしまいます。中間時代後期からイエスさまの時代にかけて、ガリラヤ地方から熱心党と呼ばれるユダヤ教一派が生まれたことも、そんな事情あってのことでしょう。平和、とりわけ、ダビデ王国の復活とその平和は、彼らも主の民イスラエルなのだと叫ぶ、悲痛な声に重なって聞こえます。そして、暗黒の地に住む者、それは、現代の私たちにも重なってくるでしょう。イザヤは、インマヌエルがその平和をもたらすのだと証言してやみません。

 しかし、ここをあれこれと詮索するより、このインマヌエルにつけられた一連の名前に焦点をあててみたいと思います。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」とあります。どうも良く分かりませんが、「不思議な助言者」とあるところだけは、不思議と助言者を区別したほうが分かりやすいようです。インマヌエルは不思議というお方であると、このメッセージが始まります。それは、救いのご計画が、神さまの隠されたところから始まるということなのでしょう。サムソンの父マノアに現われた主の使いが「わたしの名は不思議」と名乗り(士師記13:18)、「主はマノアとその妻が見ているところで、不思議なことをされた」とあります。そして、その不思議が明らかにされようとしているのです。続く一連の名前は、神さまの不思議が明らかにされていく過程を指しているのでしょう。それは、平和に向かって戦いを勝利していく過程と言って良いでしょう。戦いとは、インマヌエル・不思議と呼ばれるお方が、私たちの救いのためにご計画を練り上げ(助言者)、先頭切って障害を除き(力)、永遠の平和へと導いてくださるその戦いのことであり、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(7)のです。私たちの救いに、神さまはほんの少し手を動かすだけではありません。ご自身が苦しみ、痛み、悩みつつ、先頭に立ってくださるのです。まさにこのインマヌエルが、イエスさまに重なって来るではありませんか。


V インマヌエル、その御国に

 インマヌエル第三の証言、11章からです。9章のメッセージから少し時間が経って、多分まだアハズの時代ですが、もう、その子のヒゼキヤが執政になっています。この時期、北王国滅亡が直前に迫っていました。そして恐らく、南王国へのアッシリヤの圧力も増大しています。きっと彼らは、かつてないほどの危機におびえていたのでしょう。そんな時にイザヤのメッセージがあります。

 「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」(11:1) 10章で、ユダヤに強力な圧力を仕掛けてきたアッシリヤが、緑豊かな森(10:34森の茂み・新共同訳)に例えられていますが、それとは対照的に、インマヌエルは、エッサイの根株から生え出る一本の若枝という如何にも頼りなげな存在として描かれています。しかし、その勢い盛んな大きな森が、強い鉄の斧(万軍の主)で切り倒されて跡形もなく消え失せてしまうと言われ、切り株に生え出た小さな新芽が、「実を結ぶ」と言われるのです。アッシリヤが新バビロニヤ帝国に交代したのはBC610年頃、南王国滅亡の20年ほど前のことでした。そして、そのバビロンもペルシャ帝国に……、世界制覇を企てる大国が次々と交代していくことになります。平和は、大国の武力によらないという証しのようです。

 平和をもたらすのは、「エッサイの根株に生え出た若枝」なのです。エッサイとは、ダビデの父の名前であり、インマヌエルが、切り株のようになってしまったダビデの家から出るという証言です。当面の危機があるとはいえ、まだダビデ王朝は存続しており、誰もそれが滅亡するなどとは思ってもいません。しかし、神さまへの信頼を失って、北王国はすでにその命脈が尽きていました。恐らく、南王国も同じ道を辿るでしょう。イザヤは、そんな彼らの罪を数えたり、糾弾してはいませんが、インマヌエルについて、「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、……正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し……正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」(2-5)と証言することが、実は、彼らイスラエルに決定的に欠けるものだという証言に聞こえてくるのです。神さまを見失って、混乱と破滅に絶望するであろう者たちへ、イザヤは、彼らが失った主の霊や主の知恵、主を恐れる心、正義、真実をまとって、インマヌエルが救い主としておいでになると宣言しました。しかしここに、彼らがその欠けたところを取り戻して欲しいと願うイザヤの願いもまた聞こえてくるのです。それは、現代の私たちについても同じではないでしょうか。

 「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し……主を知ることが地を満たす」(6-9) これは「その日、エッサイの根は、国々の民の旗となり、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く」(10)とあるインマヌエルの御国の状景なのでしょう。イエスさまが「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:14)と言われたことを思い出します。その平和な御国に招かれている光栄を思って頂きたいのです。次第に暗黒の様相が深まる現代、しかし私たちには、こんなにも穏やかな世界が用意されているのです。イザヤのメッセージに、そのすばらしさを聞いていこうではありませんか。