預言者の系譜
40  イザヤ・第一部(4)
主の証人に名を

イザヤ書 7:10−17
マタイ 1:21−23
T 恩寵を与えようと

 預言者として召し出されながら、しばらく沈黙していたイザヤでしたが、南王国アハズ王の時代に、預言者としての彼の活動が始まります。シリヤ・エフライム軍が攻めて来て動揺し、アッシリヤに援軍を要請するアハズにイザヤは、「燃えかす」のようなシリヤ・エフライムを恐れてはならない、あなたの真の王・神さまに信頼し「静かにして」いなさいと、彼の立つべきところを伝えます。「神さまを恐れ、静かにしているなら、あなたの中に主ご自身が輝いて、周りの人たちも神さまの聖なるところに辿り着く」と先週聞きました。私たちもまた、イエスさまが言われた「世の光」「地の塩」として立たされているのです。今朝は、その続きから聞いていきましょう。

 そのように聞きながら、なお沈黙しているアハズに、イザヤのメッセージがあります。「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから」(7:10) 「あなたの神」と言われるのは、イザヤ書の中でここだけです。神さまの「わたしを認めよ!」という断固たる意志が聞こえます。「しるしを求めよ」というアハズへの要求も、そのところで理解しなければならないでしょう。30年ほど後に、ヒゼキヤ王が死の病いにかかったとき、「主よ。どうか、私がまことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを思い出してください」(イザヤ38章)と祈った王に、神さまは応えられました。「あなたの祈りを聞いた」そして、そのしるしとして、日時計に降りた時計の影を10度あとに戻されます。アハズのそれは、そんな大げさなものではないようです。「よみの深み、或いは、上の高いところから」とあるのは、必ずしも奇跡を意味してはおらず、人には隠されたこと、たとえば、明け方に鶏が3度鳴くのを聞くような小さなことで良かったのです。彼が神さまに信頼するかどうかが問われたのです。それは、アハズと南王国を守るという、一方的な神さまの恩寵を示すしるしでした。


U 誰の神なのか

 「するとアハズは言った。『私は求めません。主を試みません』」(12) 荒野でのサタンとの戦いに、イエスさまが「あなたの神である主を試みてはならない」と言われたことから、アハズの答えは一見信仰から出たもののように見えますが、そうではありません。アハズは、神さまの要求を聞くなら、国を救う彼の計画を放棄しなければならないと考えたのでしょう。彼は、ヤハヴェを全く信じていなかったわけではなく、外国流に自分の子に火の中をくぐらせたり、香を焚いたりして、そのような仕方でヤハヴェへの犠牲を献げようとしていました。恐らく、彼は政治と宗教を分けていたのでしょう。それは、手を合わせて敬うけれども、決して神さまを信頼して聞く存在とはしない日本人の宗教意識と似ているようです。彼は、恐らく政治に口出す権利を持っていたと思われるイザヤ(恐らく、イスラエルの貴族)に対しても、王としての決定を邪魔されたくなかったのです。ですから、あたかも信仰深い態度であるかのように、丁重に、しかしお茶を濁してイザヤを拒否したと思われます。

 ところが、イザヤが求めていたのは、神さまによるイスラエル統治、つまり、「神政政治」なのです。ですから彼は、アハズの王としての責任分野にまで踏み込んだのです。彼が「さあ聞け。ダビデの家よ。あなたがたは……」と呼びかけたのは、アハズとの会見の場所が王宮に移され、もしかしたら、王族を含めた政治家や軍人たちの会議でのメッセージではなかったかと想像します。アハズは、預言者に一応の敬意を表したのでしょうか。そこが王宮の会議室だったなら、イザヤのメッセージは一層、「ヤハヴェこそあなたがたの真の王である」というところから聞かれなければなりませんでした。シリヤ・エフライム同盟軍とどう戦うのか、その作戦会議の主役はアハズではなく、真の王・ヤハヴェなのです。しかしアハズは、その絶対者を何としても認めず、同席する者たちも同様でした。

 イザヤのメッセージが始まります。「あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか」(13) 「人を煩わす」とは、アハズが拒否した結果、国が悲惨へ向かうことを指しているのでしょう。それをイザヤは、「私の神までも煩わす」と聞きました。「あなたの神」から「私の神」へと変わっていくのです。イザヤもまたアハズの拒否を受け止め、それは、もはや真の神さまはアハズの神ではないという宣言なのでしょうか。アハズは、真の舵取りを失って、迷走し始めます。シリヤ・エフライム軍に何度も蹂躙され、やがて援軍としてやって来たアッシリヤにも、王宮と神殿の宝物倉からたくさんの貢ぎ物を贈ることになります。更に、今まで従属していたエドム、ペリシテ人たち周辺のカナン諸国さえ南王国を攻め立てるようになり、領土が切り取られていくのです。


V 主の証人に名を

 イザヤ書中、最高峰の一つと言われるメッセージが始まります。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」(14) この「処女」は、未婚、既婚を問わず若い女性を意味しており、定冠詞がついているので、アハズの良く知っている女性、たとえば王妃ではないかと考えられて来ましたが、むしろ、神さまが特定した女性というほうが妥当かと思います。何故なら、この男の子は、その時代の人というよりも、イザヤ以降の預言者たちが注目する中心思想、「残りの者」という中で語られているからです。「この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる」(15)とあります。凝乳と蜂蜜は、イスラエルのエジプト移住以前の神聖な食物だったようですが、18節以降に語られる国の荒れ果てた様子の中に、「その日になると、ひとりの人が雌の子牛一頭と羊二頭を飼う。これらが乳を多く出すので、凝乳を食べるようになる。国のうちに残されたすべての者が、凝乳と蜂蜜を食べるようになる」(21-22)と言われる食物のことで、これは、国が荒廃した後、残りの民がようやく得た平和の中で暮らすようになると聞こえてきます。それは、アッシリヤ軍侵攻によるイスラエル民族の破滅などではなく、終末の荒廃を指しており、その後に来るメシヤによる神の国統治の状景を指しているのでしょう。それが、アハズへのしるしでした。

 インマヌエル、それは「残りの民」に関わって、神さまの救いをもたらす者と聞こえてきます。これをマタイが引用しました。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと神は私たちとともにおられるという意味である)」(1:22-23) イエスさまご降誕の時のことです。これはイエスさまであると聞いて良いでしょう。イザヤが指し示したお方はメシヤでした。中間時代に燃え上がり、やがて、イエスさまに結実していくメシヤ信仰が、はっきりした形をとっていくのはここからです。その意味でイザヤは、イエスさまを指し示した証人の先駆者であったと言えましょう。神さまは、今、救いの大きなご計画を始動され始めたのです。そのお方がいつ来られるかは、まだ分かりません。きっと、アハズが受け入れたなら、その時が……と思いますが、しかし、彼が拒絶し、イエスさまの時が神さまの中に確立していきました。その神さまの救いの歴史の中で、イザヤ自身が、「神、我らとともにおられる」ことを感じつつ、主の証人となったのではないでしょうか。

 さて、私たちのことです。イザヤが指し示し、マタイなど最初の弟子たちがそれを受け止めて、新たな証人となりました。以後、雲のように多くの信仰の先輩たちが、イエスさまの証人に名を連ねているのです。私たちもと思いますね。「神我らとともに」と聞きました。イエスさまを信じ、受け入れることで、そのお方が私たちとともにいてくださると聞くのです。主がともにいてくださるのですから、私たちもその証人に名を連ねて……。