預言者の系譜
4  エリヤ(4)
弱き者をも主は

T列王記 19:1−18
  ロマ 8:26−28
T イゼベルの怒りが

 先週、18章からエリヤとバアルの預言者たちとの対決を見ましたが、エリヤはその対決を制し、イスラエルはヤハヴェへの信仰を告白しました。彼らの「主こそ神です」との告白は、まことに粟粒のように儚いものでしたが、それでも、神さまの祝福だったのでしょう。乾ききった大地に激しい風を伴った大雨が降り、その雨の中、エリヤはアハブ王への心遣いを見せます。18章の終わりからですが、「アハブに告げよ。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下っていきなさい」(18:44) 彼はもうアハブを敵対者とは見ていません。アハブもまたヤハヴェを認めるようになっていたのでしょう。「アハブは車に乗ってイズレエルへ行った」(18:45) とあります。カルメル山から40qほど離れたイズレエルにはアハブの宮殿がありました。エリヤはそんなアハブの車の前を走って行くのですが、それは、ヤハヴェへの信仰を回復したかに見えるアハブが、王妃イゼベルの魔力から逃れ得るかどうか、確かめたかったのかも知れません。

 19章で、エリヤが本当に対決しなければならないイゼベルが登場して来ます。「「アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたことを残らずイゼベルに告げた」(1) 馬車でわずか3時間ほどの間に、彼の心は元に戻ってしまったようです。それほど気の弱い男とは思えないのですが、イゼベルに頭が上がらなかったのでしょうか。もしかしたら、南王国への対抗上、フェニキヤとの軍事同盟を捨てることが出来なかったのかも知れません。イゼベルは、頼りにしていたバアルの預言者がことごとく殺されたのですから、復讐心に燃え上がり、アハブが敗北したその戦いを、今度は自分が……と思ったのでしょうか。彼女は、イズレエルの入り口まで来ていたエリヤに使者を送り、「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように」(2) と告げます。その後の彼女の行動は記されていませんが、その気質ですから、彼を暗殺すべく直ちに刺客団を送ったものと思われます。19章には、そんなイゼベルを恐れるエリヤの様子が赤裸々に描かれていますが、現代の私たちにも、そのような恐れや不安や懐疑よって希望を見失うような状況に取り囲まれることはいくらもあるでしょう。しかし、そのような中でこそ、真の信仰を確立することが求められているようです。19章は、エリヤの信仰が新しくされていく様子を伝えていますが、私たちの信仰と重ね合わせて見ていきたいと思います。


U 疲れと飢えと乾きに

 イゼベルの怒りを知ったエリヤはユダの南方に逃れます。ずっと付き添ってくれた若者とベエル・シェバで別れ、更に南への道を辿りますが、そこは乾ききった大地が延々と続いていました。恐らく、大雨はイスラエル北部だけのことで、南はまだ乾期が続いていたのでしょう。「えにしだの木の陰にすわり」とはそれを暗示しています。もしかしたら、2年以上も雨が降らずに飢饉に見舞われたのは北部だけだったのかも知れません。パレスチナは四国と九州を合わせたほどの広さらしいのですが、南北に長いので、イズレエルからベエル・シェバまで歩くと、近道でも1週間や10日はかかったようです。イゼベルへの恐れの上に、疲れと乾きと空腹で一歩も歩けなくなり、「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」(4) と、バアルの預言者たちと対決した者とは別人かと思われる、情けない姿をさらけ出したエリヤの前に、御使いが現われます。「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」 そこで「彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、40日40夜、歩いて神の山ホレブに着いた」(8) とあります。そこはシナイ山、モーセが神さまの召命を受けたところであり、エジプトを出たイスラエルが十戒を授与されるなど、神さまの選びの民としていろいろ整えられた地です。エリヤは大慌てでイゼベルから逃げ出して来ただけでしたが、実は、そこへ来ることは神さまの導きだったのです。そのシナイ山で彼は、道半ばだったイスラエルの信仰復興のために、神さまとの新しい出会いを経験します。

 20章にはエリヤの名前はなく、預言者たちがアハブとイゼベルに戦いを挑む出来事が記されています。きっと、彼の活躍によってヤハヴェの預言者集団が復活し、エリヤがそのリーダーとして背後にいたのでしょう。神さまのことばが預言者の系譜を通して働き始めるのです。現代の教会の在り方にも通じるところがあるでしょうか。19章のエリヤと神さまとの記事は、私たちひとりひとりの神さまとの新しい出会いから、教会のすべての働きが始まると語っているようです。


V 弱き者をも主は

 シナイ山でエリヤが神さまと新しい出会いをします。山の中腹でしょうか、見つけたほら穴で一夜を過ごしたエリヤは、そこで主のことばを聞きます。「エリヤよ。ここで何をしているのか」、「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ、私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています」(10) イスラエルの人たちが「主こそ神です」と告白した(18:39)ことを、エリヤは信用しておらず、そのことを言っているのかも知れません。或いは、アハブとイゼベルをイスラエルの人々と置き換えているのでしょうか。いづれにしても、彼は非常に深い孤独を訴えています。恐らく、預言者集団がイゼベルにつぶされ、散り散りになってしまった生き残りの預言者たちが、みんな同じ心細さを味わっていたのではないでしょうか。このつぶやきは、そんな彼らを代表し、また、小さく弱い私の代わりに言ってくれたようにも聞こえます。

 しかし、エリヤが神さまと出会ったこのところは、大きな励ましです。「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て』すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大嵐が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、嵐の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに 火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」(11−12) 神さまのなさることは、時には大きな嵐のようであり、そんな華々しい働きを展開している伝道者たちがいます。しかし、この時のエリヤのような弱いみじめな者たちにふさわしく、か細い声をもって語り掛けてくださることもあるのです。この時、エリヤは神さまの大きな声を聞き分ける耳を失っていたのかも知れません。ともあれ、彼は主の小さな声を聞きました。彼はすぐに外套で顔をおおい、外に出てほら穴の前に立ちます。「エリヤよ。ここで何をしているのか」この問いは9−10節と重なりますが、先のエリヤの答えとともに、彼の悲しみの訴えを主が聞いてくださったと、列王記記者はあえてここに繰り返したのではないでしょうか。ロマ書でパウロが「御霊も同じように弱い私たちを助けてくださる」(8:26)と証言していますが、私たちにとっても、神さまはそのように愛とあわれみに富んだお方なのです。それがイエスさまの十字架の犠牲であり救いとなったのです。

 預言者集団の再結成は、彼のこの神さまとの新しい出会いから生まれ、新しい戦いが始まります。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いでアラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油を注ぎ……」(15−17) その様子は別の章になるのですが、孤独を訴えたエリヤに神さまは、「イスラエルにバアルに膝をかがめなかった者7000人を残しておく」(18)と言われました。現代、不毛と言われる日本人の中にも、必ず主を知る人たちが残されているのでしょう。その人たちのために、今、私たちが神さまのか細い声をも聞き漏らさず、しっかりと受け止め、伝えていくことです。そんな戦いを心に刻みつけたいと願います。