預言者の系譜
38  イザヤ・第1部(2)
苦しみつつ愛に

イザヤ書 6:8−13
マタイ 13:13−16
T 神さまの細い声を

 聖なる神さまにお会いし、「私はもうだめだ。こんなに汚れた者で、しかも万軍の主をこの目で見たのだから」と絶望するイザヤに、赦しの手が差し伸べられます。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの罪は贖われた」(7) 先週、青年イザヤの深い罪の意識を見ました。聖なる神さまを見たばかりのイザヤは、もう、自分には滅びることしか残されていないと、絶望に打ちのめされています。あなたはそれほど深い罪の意識を持っているか、それほどの神さまとの出会いをしているかと、私たちへの問い掛けでもあると聞こえてきます。

 今朝は、彼の召命から見ていきたいのですが、「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに私がおります。私を遣わしてください』」(8) 神さまが大切にしようとしておられるのは、イザヤが自分の意志で神さまの招きに応えることだったようです。招きと応答、これは、私たちの信仰においても大切なことでしょう。信仰とは応答です。イエスさまを信じた私たちは、洗礼を受けることも含め、告白していかなければなりません。私はイエスさまのものであると、その旗印を明らかにしていくのです。ここで一つ不思議に思うのですが、神さまがご自分に向かって語っておられる「われわれ」とは、尊厳の複数でしょう。アモス書に「人にその思いが何であるかを告げ」(4:13)とありますが、「思い」とは「独り言」と訳し得ることばですが、それよりももっとかすかな細い声(T列王記19:12)であると聞こえて来ます。イザヤは、その細い声を聞いたのでしょう。信仰は、他の誰にも聞こえない声を、自分への語りかけとして聞き取っていくことでしょう。


U 罪の意識もともに

 彼は躊躇なく応えました。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」 イザヤはこの召命の前、1〜5章に、恐らく南北両王国に向かってなのでしょうが、イスラエルが神さまを遠く離れて、罪の真っ直中にあることを繰り返し指摘します。それは、預言者として召し出された6章以後の彼のメッセージですが、彼は、自分の召命が民への罪の宣告であったと明らかにするために、時間的順序を後先にしているのです。そこにこうあります。「彼らは言う。『彼のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たいものだ。イスラエルの聖なる方のはかりごとが、近づけばよい。それを知りたいものだ』と」(5:19) 彼らの言い方は、イザヤが「彼らは万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮った」(24)と洞察したように、神さまの聖なることへの挑戦であったと断じて良いでしょう。イザヤの召命は、そんなイスラエルに、神さまの絶対聖なること、そして、神さまの激しい怒りを伝えるものでした。「行くだろうか」「遣わしてください」という対話には、その使命が神さまにもイザヤにも共通事項だったことが暗示されているのでしょう。かつて、神さまの細い声を聞いた者はエリヤでした。彼は、その細い声に招かれて預言者として立ったのです。まさに、その時と同じ状況がイスラエルに生じていました。もしかしたら、イザヤにはその出来事が脳裏にあったのかも知れません。彼の応答が、細い声を聞いたその瞬間であったことに気づきます。

 すると間髪を入れず、神さまのことばがありました。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために」(9-10)神さまの怒りは激しく、イスラエルがその罪を悔い改め、神さまに立ち返るようにとの、生やさしいものではありませんでした。それほどイスラエルは、神さまから遠く離れ、罪を感じることに鈍くなっているのです。そしてそれは、昔のイスラエルだけではない、まさに、現代人そのものの在りようではないでしょうか。神さまが閉ざしたとでも言いたげに、聞き続けることも、見続けることも、悟ることもせず、、自分の興味のあることだけを知りたいと求めているのです。見なければならないことには目を閉じ、耳を塞ぎ、心まで閉ざして……。

 きっとイザヤには、震え上がるほどの神さまの怒りだったでしょう。私自身、果たしてそれほどの思いをもって神さまのことばの前に立っているかと思わされます。しかし、「もう滅びるばかりだ」と、深い罪の思いに打ちのめされたイザヤでしたから、神さまはきっと、赦しの手を差し伸べながら、罪の意識に全く鈍くなってしまった当時のイスラエル、そして、現代の私たちへのメッセージを語らせようと、その深い罪の意識もひっくるめ、イザヤを召し出されたのではないかと思われます。ここに、そんな神さまの思いが浮かんでいると聞こえて来るのです。


V 苦しみつつ愛に

 「私が、『主よ。いつまでですか』と言うと、主は仰せられた。『町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主の人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで」(12)と。この恐ろしい宣告は、いつまで続けなければならないのでしょう。その期間はまるで、罪の贖い、死にも匹敵する激しい苦しみの連続のようです。しかしイザヤは、自分とイスラエルは、その苦しみに価する者であると受け止めました。そして、神さまの怒りの前に立つのです。もし、その期間が短くされるのでなければ、どんな者も立ち続けることは出来ないでしょう。神さまの憐れみだったのでしょう。「町々が荒れ果てて、住む者がなく、主が人を遠くに移されるまで」と言われます。これは、北王国がアッシリヤによって滅ぼされ、遠くの国に移されることを言っていると解されますが、イザヤがこの厳しいメッセージを託されたのは、ウジヤ王の死んだ年、北王国滅亡の約18年前のことでした。それでも耐え切れないほどの長い年月ですが、北王国はすでに混乱を極めた時代にあって、終焉が間近に予想されていました。この耐え難い苦しみの期間は、比較的短かったと言えましょう。しかし、それが南王国への告発とするなら、それは更に長く、イザヤは、そのいのちが果てるまで彼らとともに苦しんでいかなければならないのでしょう。神さまから召し出されるというのは、誰か(同胞、或いは兄弟と言ったらいいでしょうか)と同じ苦しみを負うことであると教えられます。

 自分とイスラエルの罪を意識したイザヤには、神さまの徹底的な怒りだけが聞こえていましたが、神さまは、なおそこに残る信仰の民たちを期待されているのでしょう。一層細いかすかな声だったでしょうが、イザヤはその声を聞き取りました。「そこにはなお、10分の1が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株」(13) イザヤは「聖なる切り株」を、イスラエルになお残るわずかな民たちであると理解したのでしょう。その民がどのように残っていくのか、彼にはまだ分かりません。しかし、これが誰なのかを、イエスさまが明快に言い切られました。ガリラヤ湖のほとりで、集まって来た群衆を前に、種まきのたとえを話された時のことです。「道ばたに落ちた種を鳥が来て食べてしまった」(マタイ13章) 彼らにたとえで話されたのを、弟子たちが「何故ですか」と尋ねます。イエスさまは、「彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また悟ることもしない」とイザヤのことばを引用し、そして言われました。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は利いているから幸いです」と、それは、弟子たちに向かって言われたことばでした。十字架におかかりになったイエスさまを救い主と見つめる者だけが、主の聖なる切り株として残っていくのでしょう。罪を憎まれながら、私たちのいのちを惜しんでくださる神さまの悲しみと愛を、この預言者とともに苦悩しつつ聞き、神さまの愛の深みに辿り着いていきたいですね。