預言者の系譜
37  イザヤ・第1部(1)
聖なる者と

イザヤ書 6:1−7
Tペテロ 1:15−16
T 預言者イザヤ

 先に〈預言者の系譜〉でエリヤからミカまで、5人の預言者たちを見て来ました。今朝から、旧約聖書最大の預言者イザヤを取り上げていきます。時間的には彼は、アモス、ホセアに続く預言者であり、同時代のミカよりも先に取り扱うべきでした。ただ、イザヤ書の量も内容も余りにも膨大なため、なかなか全体像が見えて来ず、ミカを先に扱ってしまいました。ご勘弁を。

 イザヤ書を中心に見ていきますが、66章と長く、しかも後半は、第二イザヤ・第三イザヤと呼ばれ、別の預言者たちのものと言われるほど、前半とは全く違った展開を示しています。イザヤはあくまで一人であると思いますが、1〜39章と40〜66章の2つに分けて見ていくのが妥当でしょう。一応、前半の1〜39章を第一部とし、まずそこから始めていきましょう。今朝は、彼の召命の記事、初めの6:1-7から2つのことを見ていくことにします。その第一は、イザヤが見たと証言する神さまのことです。それは、「いまだかつて、神を見た者はいない」(Tヨハネ4:12)と言われるその方がどのようなお方であるか、信じる者たちにとって、決して無関心ではいられないし、出来るならお会いしたいと願うからです。そのお方にお会いしたと告白するイザヤです。聞いていきたいと思います。

 「ウジヤ王が死んだ年に(BC740年頃)」と始まります。ウジヤ王は、北王国滅亡直前の無政府時代という混乱期に、南王国で優れた善政を行ない(52年間の治世)繁栄をもたらしましたが、その晩年に、神殿に入って香を焚くという祭司の職分を犯す過ちを犯し、神さまの怒りに触れて、らい病になってしまいます(U歴代26:16-20)。多分、そのウジヤ王がまだ存命していました。そんな王のこともあって、繁栄する南王国の中に敏感に罪を感じ始めていた20才頃の青年イザヤが、神さまからイスラエルへのメッセージを託される預言者として、召し出された出来事が始まるのです。


U 玉座に座し給う栄光の主を

 「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ6つの翼があり、おのおのその2つで顔をおおい、2つで両足をおおい、2つで飛んでおり、互いに呼び交わして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた」(1-4)

 イザヤは、神殿や宮殿に自由に出入り出来る、イスラエルの貴族的家柄(祭司?)の出と思われますが、そんな地位や特権の一切を捨ててまで、およそ50年に渡り、神さまのメッセージを伝える者となりました。その彼の預言全編を貫いているのは、今朝見たい彼の強烈な神体験だったようです。

 「高くあげられた王座に座しておられる主」 或る人は、イザヤが神殿の入り口を入った広間で、正面奥に位置する至聖所を見ていると、その暗い奥のほうに光が差し込み、天井が抜けて、はるか天にまでその光に包まれた玉座が伸びていったと想像します。恐らく、神さまのご臨在するところが、至聖所を隔てた幕が取り払われた(ルカ23:45)だけではなく、天地の区別をも失い、全地の隅々にまで押し広げられたということなのでしょう。イザヤは、その栄光の主を見たと告白しますが、彼が見たと具体的に描写しているのは、「その衣のすそは神殿に満ち」「その衣の上のほうで、6つの翼を持つセラフィム(神さまのそば近くに仕える天使・複数)が、その一対の翼で顔を覆い、他の一対で足を覆い、別の一対で飛んでいた」という状景だけです。それは、私たちの想像の域をはるかに越えますが、きっと、栄光の神さまが今「(裁きなのか救いなのかは分かりませんが)何かを始めようとしておられる」ことを象徴しているのかと想像します。ただ、イザヤは動転しながらも良く観察しており、それが、彼が神さまを見たという事実の裏付けとなっているのです。もっとも、彼が見た栄光の神さまは、ほんの一部、衣のすそだけだったのかも知れません。なにしろ、セラフィムでさえ顔を隠して直接は見ていないのですから。結局、神さまがどのようなお方なのかは分かりません。しかし、ちっぽけな私たちのところにまで、その栄光の衣のすそを広げてくださるお方であると聞こえてきます。

 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」(3)と、セラフィムの賛美が響いて来ました。「聖なる」と3回も繰り返すのは、ヘブル語に最上級の用法がないためですが、その最高に聖なるお方がイザヤに現われたのです。彼の脳裏には、不法を侵して神さまに斥けられたウジヤ王のことがあったのでしょう。その神殿に神さまの衣のすそがいっぱいに広がり、セラフィムの賛美が溢れます。彼には、神さまが、その聖をもってその民に立ち向かい始めたと感じられたのでしょうか。


V 聖なる者と

 ここから聞きたいもう一つのことは、イザヤの罪の意識と神さまの赦しのことです。栄光の神さまを見たイザヤが言います。「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから」(5)

 「くちびるの汚れた者」 これは、レビ記の規定に「患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている。汚れている。』と叫ばなければならない」(13:45)とあるところから理解されましょう。「口ひげをおおう」というのは、らい患者の息が周囲の人を汚すことを防ぐという意味です。イザヤは、らい病人として王座から退いたウジヤの姿を、イスラエルの罪に重ね、また、それを自分に重ね合わせているのでしょう。まして、彼は今、栄光の神さまを見たばかりです。口ひげをおおわなければならないような自分が、どうして、その聖なる神さまの前に立つことが出来るでしょうか。彼が感じているように、ご臨在の神さまに遭遇した者にとって、自分の罪深さに打ちのめされ、「もうだめだ(滅びる)」と絶望することしか残っていないのかも知れません。しかし、逆に考えるなら、神さまの前に立つ者だけが、自分に罪ありと認めることが出来るのであって、そこで本当の神さまとの出会いが始まるのだと思います。神さまなしの、罪を罪としない傲慢な現代人の生き方が浮き出ているようです。

 「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」(6-7) イザヤのくちびるに触れた燃える炭は、至聖所内に設えられた香を焚く祭壇から取られたものと思われます。レビ記には「アロンは、主の前の祭壇から火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る」(16:12)とあり、大祭司が年に一度至聖所に入って、民の罪のために贖いをするように定められていました。イザヤは、神さまと民の間に立つ預言者として召し出される前に、まず、彼自身の罪が赦され、贖われなければならなかったということなのでしょう。

 それは、聖なる神さまの、みことばの代理者として立つための第一歩でしたから、イザヤ自身が神さまの聖に招かれたと聞こえてきます。聖ということを考えてみたいのですが、これは、「区別されたもの」という意味であると聞いてきました。しかしそれは、全く別のところに切り離された分離を意味するのではなく、民から分かたれてはいるが、民の中にいるのです。だから、聖なる神さまは「あなたがたとともにいる(インマヌエル)」と呼ばれます。今、イザヤは、そのようなところに呼び出されようとしています。そして、現代の私たちも、イエスさまを信じる信仰において、同じところに呼び出された者なのです。それは、「あなたがたを召してくださった聖なるお方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい」(Tペテロ1:15)とあるように、私たちのイエスさまを信じる信仰の生き方が問われているのです。