預言者の系譜
36  ミカ(8・最終回)
主への告白をともに

ミカ書  7:14−20
ヘブル書 10:22−24
T ミカの祈りが

 ミカの最終回です。今まで7回に渡って、この預言者が北王国から南王国へ目を転じ、イスラエルの、特に指導者たちの罪を告発し、神さまの厳しい裁きを伝えてきたとお話ししました。街頭でメッセージを語り、サンヒドリンの裁きの場で弁論し、また、人々の質問に答えながら、「主があなたがたに求めておられることは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」(6:8)とねんごろに教え諭したミカ。しかし、イスラエルはその生き方を変えようとはせず、頑なに自分たちの道を突き進みました。ここ何週間、そんな彼らも主の民であって、やがて主の希望に迎えられるであろうと、密かな期待を語るミカを見てきました。

 そのミカの、これは晩年になってからのものでしょう。イスラエルへの期待を失い、もう街に出てメッセージを語ろうとはしません。しかし、これは預言者の重大な責任であると、彼は主の前に立ちます。民が変わらないから、主のあわれみに依り頼もうというのでしょう。そんな彼の思いは、7章の6−7節を見るだけで十分に伝わって来ます。「息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる」と。

 そしてミカの祈りが始まります。「あなたの杖をもって、御自分の民を牧してください。彼らが豊かな牧場の森に、ただひとり守られて住み、遠い昔のように、バシャンとギルアデで草をはむことができるように」(14新共同訳) バシャンとギルアデはどちらも北王国に属した領土で、特にバシャンは肥沃な土地として知られていたようです。ミカは、イスラエルが南北に分断される以前の、輝いていた時代に戻されることを神さまに願っているのでしょう。ここに、遠い昔のその様子が窺われますが、かつて、神さまとイスラエルは牧者と羊のような関係にありました。イスラエルで本物の牧羊者を見かけたことがありますが、長い杖を巧みに使いながら、牧草地に連れて行こうと、何十頭もの羊を追い立てているのですが、時々群れからはみ出すのがいても、羊たちはその杖に安心しているようでした。イスラエルもそのようであったと、ミカは、神さまにそのことを思い出してくださるよう願っているのではないでしょうか。イスラエルは、そんな導きの神さまの杖を見失っていたのかも知れません。


U 期待を上回る栄光に

 15節にミカは、「あなたがエジプトの国から出た日のように、わたしは奇しいわざを彼に見せよう」と、神さまのことばを挿入します。新改訳では、この15節だけを前後と切り離し、独立したもののようにしていますが、恐らく、この取り扱いは正しいでしょう。今、ミカの目は神さまに向いていて、ここには彼の祈りの姿だけが見えますが、ここで彼は、祈りに答えてくださる神さまが、実は本当に近くにいてくださるのだと宣言しているのです。神さまの答えは、「エジプトの国から出た日のように」でした。それは、エジプトでみじめな奴隷だったイスラエルが、神さまに向かって苦悩の叫び声を上げた時、その叫びを聞き、指導者モーセにより、紅海に道を造るなどしてエジプトを脱出させてくださった、驚くべき神さまのみわざを指しているのでしょう。それは、エジプトに寄留して430年、神さまを忘れ、神さまから遠く離れてしまったイスラエルが、自分たちにはこんなに力ある神さまがついているのだと、覚え直した時でした。今、ミカの時代のイスラエルも、その同じ神さまを思い出さなければならなかったのです。この神さまのメッセージは、ミカが「バシャンとギルアデで草をはむように」と願った、ダビデ、ソロモンの王国時代をはるかに上回る栄光に、主の民たちを連れて行くのだと聞こえてきます。それは、現代の私たちも聞かなければならないメッセージでしょう。

 14節の「杖」は、そんな神さまの導きの手を指すものと思われますが、その御手は、イスラエルを陥れようとする異邦の人たちに向かっても差しのばされます。「異邦の民も見て、自分たちのすべての力を恥じ、手を口に当て、彼らの耳は聞こえなくなりましょう。彼らは……、私たちの神、主のみもとに出て来て、わなないて、あなたを恐れましょう」(16−17) ミカは、北王国を滅ぼしたアッシリヤを念頭に置いているのかも知れません。この異邦の民を、私たちをイエスさまの愛から引き離そうとする力(ロマ8:31−39)と聞いていいでしょう。それがどのようなものか分かりませんが、私たちの主への道を妨害する者と聞くなら、神さまの御手は、私たちのために、彼らを排除してくださると聞こえてきます。「私はこう確信しています。死も、いのちも、……高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ロマ8:38−39)と約束されていることを、私たちの信仰の中心で聞いていきたいと思います。


V 主への告白をともに

 ミカ書最後の3つの節(7:18−2)を見て、<預言者の系譜・ミカ>を終わりにしたいと思います。新共同訳から紹介すると、「あなたのような神がほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない。神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブにまことを、アブラハムに慈しみを示してください。その昔、我らの父祖にお誓いになったように」とあります。

 預言者として召し出されて40年、ミカのもう晩年になっているのでしょう。その40年の間に、北王国が滅亡し、南王国もアッシリヤ軍がエルサレムを包囲するなど、滅亡の危機に見舞われました。恐らく彼の目に、イスラエルはせっせと罪の升目を満たしていると映っています。その活動のほとんどの期間を、彼は故郷モレシェテ・ガテとエルサレムで、時には街頭に立ち、時には議会に立って、偽預言者たちと結託したイスラエル指導者たちの罪を激しく糾弾してきました。ミカ書の大半が、そのような告発と神さまからの裁きのメッセージで溢れています。しかし、4章で希望のメッセージを語るミカには、厳しくイスラエルの罪を裁こうとする神さまが、実は、何者にも優ってご自分の民イスラエルを惜しんでおられることがはっきりと分かってきたのでしょう。

 「あなたのような神がほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。神はご自分の……」 これはミカの信仰告白であると聞こえてきます。新共同訳で「神は」とあるのを、「あなた」と訳した新改訳がミカの告白にふさわしいのでしょう。彼は、怒りの神ではなく、慈しみに溢れる神さまを肌で感じていました。その神さまに、「あなたは」と力一杯の祈りと賛美を献げているのです。信仰告白はことばだけのものではなく、私たちの全人格を傾けた、祈りであり、賛美であると、ミカの信仰に教えられます。イスラエルの将来が不安だからと、やきもきしてもどうすることも出来ません。ただただ、慈しみに溢れる神さまに願うだけなのでしょう。それは、あらゆる方面に不安を一杯抱えている現代についても言えることではないしょうか。4章でメシヤ(キリスト)が来られる時に希望をつなげた「残りの者」が、ここにも繰り返されています。ヤコブやアブラハムの名が出ていますが、これは、イスラエルばかりではなく、現代日本の私たちへのメッセージでもあると聞かなければなりません。5章のメシヤがベツレヘム・エフラタから出るというメッセージは、そのことを指していたのでしょう。ミカの信仰告白であり、祈りであり、賛美であるここを、慈しみに富まれる主への信仰とともに、力一杯の告白(ヘブル10:23)にしようではないかと、これがミカの私たちへの最後のメッセージであると思います。