預言者の系譜
34  ミカ(6)
主の招きのもとに

ミカ書  4:6−8
Tペテロ 5:6−11
T メシヤ来臨の希望を

 南王国の、特に指導者たちの罪を厳しく糾弾しながら、ミカはなお主にある希望を見つめようとしました。その希望のメッセージが4章にまとめられています。後先になりますが、前回は4:9−5:1から、バビロン捕囚の確定とその救いという、ミカから見て最も近い出来事(と言っても100年ほど後のことですが)を見ました。それは「主がなされることである」と、彼の中心メッセージでした。

 そして、今朝は少し遡って4:6−8です。「その日」とありますが、これがどのような「日」かを考えてみたいのです。8節の「あなたに(シオン)、以前の主権、エルサレムの娘の王国が帰って来る」とあり、これはバビロン捕囚からの帰還を意味しているように見えますが、前にも触れたように、当時の預言者たちには、先の希望を何もかもごちゃ混ぜにしているようなところがあり、かなり整理しているとは言え、ミカにもそのような混乱が無縁だったわけではないようです。むしろ彼の中で、近未来の出来事に、より根本的な神さまの希望が重なっていたのでしょう。

 ここでのミカの中心主題は、「わたしは足のなえた者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を寄せ集め、彼らを残りの者とする」(6−7)ですが、その光景は、イエスさまのもとに、大勢の病人や貧しい者たち、不具者、弱い人たちが集まって来たことと符合します(マタイ15:29−31)。バプテスマのヨハネが、マケルスの獄中から弟子を遣わしてイエスさまに尋ねたことがあります。「おいでになるはずの方はあなたですか」、するとイエスさまが答えられました。「盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられている」、そうヨハネに伝えなさいと言われるのですが、それがイエスさまの、メシヤとしておいでになったお姿でした(イザヤ35:章、マタイ11章)。ミカはここに、そのようなメシヤを描こうとしているのでしょう。「その日」とは、メシヤ来臨の日です。


U 弱い者たちをご自分のものと

 ミカが描くメシヤ(キリスト)の姿をもう少し詳しく見ていきたいのですが、第一に、メシヤは「足のなえた者、追いやられた者、わたしが苦しめた者」を集めるお方だということです。「足のなえた者」とありますが、これは弱者を言うときの一つの典型でしょう。イスラエルにそのような人たちが多かったのでしょうか。むしろ、肉体的ハンディを背負っているために、イスラエル社会の構成員と認められない人たちを象徴していると考えたほうがいいかも知れません。そこでは、「身に傷のない」ということが、社会的に認められる大きな要素になっていました。王になるためには身に傷があってはならなかったし、主への献げ物も、傷のある犠牲はふさわしくなかったのです。らい病患者が彼らの宗教社会(捕囚以後ではシナゴグ)から排除されていた形跡さえあり、恐らく、盲人や足なえも同様だったと考えていいでしょう。イスラエルという神さまの選びの民の社会から疎外され、彼らはどんなにその一員になりたかったことでしょう。日本にある村八分以上に、彼らは、神さまから疎外されているという絶望にあったと考えなければならないでしょう。「追いやられた者」も、同じような弱い者たちでしょう。そして、そのミカの意識は一層、「わたしが苦しめた者」という言い方に凝縮されています。新共同訳では「わたしは彼らを災いに遭わせた」と訳し、そこに神さまが持ち出され、神さまが彼らを苦しめたと言うのです。「神さまは、あなたがた身に傷のある者たちを受け入れないだろう」と勝手な推測を盾に、祭司や長老たちは、彼らをイスラエル社会から疎外して来たのです。福祉という名のもとに、現代は違うと言うかも知れませんが、果たしてそうでしょうか。メシヤが足なえを一番目に上げて「彼らを集める」と言われるのは、その背景の中で考えなければならないことです。だからミカは、「わたしは足なえを、残りの者とし」(7)と、もう一度彼らを弱い者たちの代表に掲げたのではないでしょうか。

 「追いやられた者」(6)とあります。ミカはこれに「遠くへ移された者」(7)を重ね、バビロン捕囚とされた全イスラエルを、弱いけれども主の民であると宣言したかった。彼の悲しみが込められているようです。そこには、罪の捕囚となった現代の私たちも含まれるでしょう。これがミカの希望のメッセージであり、主ご自身が、弱い者たちをご自分の民として集められる日が来るというメッセージなのです。十字架におかかりになったイエスさまが、希望として立ってくださった。そして、今現代、その希望を掲げて主の群れ・教会が立っていると覚えたいのです。


V 主の招きのもとに

 ミカが描くもう一つのメシヤ像があります。「わたしは足なえを、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる」(7)とありますが、ここに見られる<残りの者>に注目したいのです。この意識は、アブラハムの昔からありましたが、特にイザヤ以降に膨れ上がった預言者たちの中心思想です。彼らがこれまで力を込めて語ってきたのは、イスラエルの罪をあばき、それを厳しく糾弾するものでした。そこには目もくらむような神さまの怒りが語られ、イスラエルは破局へと向かいます。それは、これまで見たミカのメッセージからも明らかでしょう。何としても自分たちの欲望・理屈に執着し、預言者たちの警告した罪を悔い改めようともしないイスラエルに、厳しい裁きが執行されようとしています。すでに、北王国はアッシリヤ帝国の武力に屈し、国を失いました。その経過を見て、ミカは心を痛めつつ鋭く警告しますが、時すでに遅く、今や南王国が、バビロン捕囚に向けて破滅の一途を辿り始めています。恐らく、ミカがこれを語っている時、アッシリヤ軍隊に包囲されたエルサレムが苦しんでいたでしょう。エルサレムの苦しみを自分の苦しみとしながら、彼は、主が残りの民を集めてくださるとの希望を聞いたのではないでしょうか。

 それは神さまの救いの日でした。残りの民がそれほど多くはないと感じていたでしょうが、しかし、神さまが介入しての残りの民です。彼がここで「強い国民とする」という言い方が出来たのも、残りの者が神さまの民だからでしょう。紀元70年にローマ軍に蹂躙されたユダヤ人が世界放浪の民となって2000年もの間、苦労を重ねながら彼らが生き延びて来た背景には、自分たちには神さまがついていてくださると、預言者たちのメッセージが刻み込まれていたためと感じられます。いろいろな分野で世界一流と呼ばれる人たちの中に、ユダヤ人が名を連ねているのを見ると、「彼らを強い国民とする」という約束が絵空事ではないと、神さまの決意が伝わって来ます。

 現代の日本の教会のことを考えてみたいのですが、クリスチャン人口が1%と言われて久しく、恐らく、聖書信仰に立つ者たちだけを数えるなら、その半分にも満たないでしょう。「わずかな残りの者」とは現代のクリスチャンに当てはまるようです。しかし、「主はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる」(7)という約束を聞き、小さな群れも決して失望することはありません。また、私たちの信仰がどんなに小さくとも、私たちの祈りを聞いてくださるお方は世界を、宇宙さえお造りになった方で、そのお方が集めてくださると言われるのです。十字架をもって贖った「永遠の栄光の中に」(Tペテロ5:10)。