預言者の系譜
33  ミカ(5)
私たちの希望は主に

ミカ書  4:9−5:1
Tペテロ 1:18−21
T 何を見つめて

 先週はミカ書6章からでした。街角や法廷でミカの話を聞いた人たちが「神さまに近づくためにどんな献げものをしたらいいのか」と質問し、ミカが「へりくだって主ととともに歩むことである」と答えた対話ですが、続く7章半ばまでの厳しい断罪の宣告を聞きますと、これは神さまを見失ってしまった彼らへの悔い改めの最後の機会であり、3章に続くものと受け留めていいでしょう。しかし彼らは、その悔い改め最後の機会を放棄しました。それは、現代人が辿りつつある道でもあると感じられますが、ミカは、なお主にある希望を見つめようとしています。順序が後先になりますが、今回からしばらく、4−5章を見ていきましょう。

 ここにはいくつかの希望のメッセージが高らかに歌い上げられています。その中から、今朝は4:9−5:1を取り上げましょう。初めに少し考えておきたいのですが、4:1に「終わりの日」とあり、4:6に「その日」とあります。詳しいことは避けますが、多くの預言書で、希望にからめて言及される「日」が3つあります。一つはバビロン捕囚からの帰還、二つはメシヤ到来、そして三つ目に終末の日というのですが、ほとんどの預言者たちは、この3つの希望をかなり混同しています。ところがミカは、はっきり、希望の日を3つに区別して語っているようで、それがミカの著しい特色なのでしょう。今朝取り上げることは、その第一の希望、バビロン捕囚の確定と救いの出来事です。

 「なぜ、あなたは今、大声で泣き叫ぶのか。あなたのうちに王がいないのか。あなたの議官は滅びうせたのか。子を産む女のような苦痛があなたを捕らえたのか。シオンの娘よ。子を産む女のように、身もだえし、もがき回れ。今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行く」(9−10) バビロン台頭がこの時から60年も後のことを考えると、ミカがバビロンという名前を語るのは驚きです。彼の活動年代は「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」(1:1)とあり、北王国滅亡の直前からアッシリヤの軍隊がエルサレムを包囲し、撤退していった頃までと考えられます。バビロンによる南王国滅亡はそれより約100年後であって、同じメソポタミヤのユーフラテス川流域に栄えた世界帝国ではあるが、当時はまだアッシリヤ全盛の時代です。その時代に、ミカは100年後の出来事を見つめていました。みことばに仕える者には鋭い洞察力が必要と教えられます。


U 主の救いを

 10節は「そこであなたは救われる。そこで主はあなたを敵の手から贖われる」と続き、ここにバビロン捕囚からの救いが語られています。二回の繰り返しは、救いが確実であるとの強調でしょう。バビロンの手に落ちることは、彼らイスラエルに、非常な苦しみを伴うものでした。「大声で泣き叫び」、「子を産む女のような苦痛が」、「身もだえし、もがき回る」とありますが、決して誇張ではありません。預言者は、まだずっと先のことなのに、その苦しみを自ら体験したかのように描いています。きっと、アッシリヤによって陥落した北王国に重ね合わせているのでしょう。私たちの国も、かつて太平洋戦争で敗戦を経験しましたが、その大変な苦労の時期を、幼かった私もいくらか記憶しています。食べるものにも事欠き、生きることに必死になっている大人たちの姿が目に焼き付いています。母は砂利採集という重労働までしていました。49才という若さでいのちを落としたのは、それが原因だったのでしょう。しかし、それでも日本は、国を失うまでには至りませんでした。彼らイスラエルは、最悪の事態にまで追い込まれ、このような苦しみの表現が、決して誇張ではないとお分かりでいただけるでしょう。苦しみがそれほど大きかったから、「救い」を見つめるミカの期待もまた大きかったのです。彼の主への期待、信仰の膨らみと感じます。バビロン捕囚から救われるという宣言には、そこに主のみ手がある、これこそ彼の中心メッセージと聞かなければならないでしょう。「贖われる」とあります。神さまの選びの民であると誇る、イスラエル人だけが持つ、神さまが介入してくださる救いという出来事でした。贖いは<買い取り>を意味することば、つらい境遇にあった奴隷が買い取られ、新しいあわれみ深い主人のもとに引き取られることを意味しますが、ミカは、イスラエルが新しい主人・神さまのもとで幸せに過ごすようになると、その姿に彼らを重ね合わせていたのでしょう。

 それは、現代の私たちの姿にも重なって来ます。欲望や高慢、エゴーのかたまりになってしまった私たちは、気がついてはいないのですが、実は、そんな罪の奴隷になっているのです。気がついて、なんとかそこから抜け出そうと、いろいろな宗教に飛び込み修行や信心に励んでも、罪の身代わりに十字架に死んでくださったイエスさまを除いて、私たちを罪から解放してくださお方はいないのです。


V 私たちの希望は主に

 このようなミカのメッセージが、預言者として神さまから聞いたことに間違いないのですが、彼は神さまがなさった不思議を目の当たりにして、100年後の出来事も、すでに起こったことのように証言することが出来たのでしょう。4:11−5:1はその目撃証言です。「今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まり、そして言う。『シオンが犯されるのをこの目で見よう』と。しかし、彼らは主の御計らいを知らず、そのはかりごとを悟らない。主が彼らを打ち場の麦束のように集められたことを。シオンの娘よ。立って麦を打て。わたしはあなたの角を鉄とし、あなたのひづめを青銅とする。あなたは多くの国々の民を粉々に砕き、彼らの利益を主にささげ、彼らの財宝を全地の主にささげる」(11−13) これは、北王国を滅ぼしたアッシリヤが、20年後に再び西進して地中海沿岸のカナンの国々をうち破り、ユダに侵入、エルサレムを包囲したときのことを言っているのでしょうが、ミカは、軍隊がエルサレムに侵攻していくのを、エルサレム南西40qのほどのガテで農作業しながら見ており、もしかしたら、遠くから軍隊についてエルサレム付近まで行ったのではないかと想像します。その軍隊が、一夜のうちに主によって撃退された、ヒゼキヤ王と預言者イザヤの祈りで、一夜のうちに主の使いがアッシリヤの軍隊18万5千人を打ち滅ぼしたとある(U列王記19章、イザヤ37章)出来事も、見聞きしていたようです。ミカは、その出来事を伝えるよりむしろ、主が守られるなら、主の民は強くなると証言したかったのでしょう。ひ弱なイスラエルが、バビロンに対抗し得る唯一の手段は、主に拠り頼むことであると、ミカのメッセージが伝わって来ます。

 残念なことに、そんな主の助けを経験しながら、南王国は確固たる主への信頼を築こうとはしませんでした。「今、軍隊の娘よ。勢ぞろいせよ。とりでが私たちに対して設けられ、彼らはイスラエルのさばきつかさの頬を杖で打つ」(5:1)は、そんな彼らへのメッセージだったのでしょう。わずかに、ヒゼキヤから3代前のヨシュア王の時に、神殿を修理しようと律法の書を見つけ、民たちにこれを読み聞かせ、異教の神々を焼き捨て、ヤーヴェへの信仰に立ち帰るよう宗教改革を行ないますが、時すでに遅く、新バビロニヤ帝国が台頭し、間もなく強大なネブカデネザル王のもとに南ユダ王国への侵攻が開始されます。ヨシュア王の後わずか三人目のゼデキヤ王の時に、南王国は滅亡、たくさんのイスラエル人たちはバビロンに捕囚となってしまいます。そして、その帰還は、バビロンに代わる70年後のペルシャ帝国台頭を待たなければならないのです。ミカは、その帰還の希望を、アッシリヤ軍撃退の主の助けに重ね合わせていたのでしょうか。「主がなされる」、これがミカの中心主題でした。私たちの希望も主にある(Tペテロ1:21)と覚えたいのです。