預言者の系譜
32  ミカ(4)
へりくだって主とともに

                                          ミ カ 書 6:6−8  
                                               ピリピ書  2:1−11
T みことばに反応して

 ミカ書6章からです。ミカばかりではなく、他の預言書についてもおおかた言えることですが、預言者たちは、何年もかけて語って来たことを、その活動の終わり頃に文書として編集し、まとめたと考えられます。初めから文書として書き上げたものではないので、時間的順序が後先になったり、編集時に付加されたところもあって、それが預言書を難解にする原因の一つなのでしょう。ミカ書はその典型と思われます。今朝の6章も、時間的には3章に続くものと考えられますが、ミカが何故これをここに挿入したのか、考えてみなければならないことです。まず、内容から見ていきましょう。

 6−8節を<主とイスラエルの論争>と考える人もいますが、むしろ、何人かの人がミカに質問していると考えたほうが現実的でしょう。きっと、街角や法廷で話しているミカに向かっての質問だったのでしょう。「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか」(6)とありますが、これは、その中の一人の(多分何人かの同じ質問をまとめたもの)質問と思われます。<いと高き神>はエルサレムの神殿を言っているのでしょう。彼はミカのメッセージから、彼らの罪の根本が、神さまをないがしろにしていることであると聞きました。そして、神さまの前にどのように出て行ったらよいのかを尋ねます。イスラエルの大部分の人たちは、神殿にささげものをもって行くことが、神さまの前に出ることであると考えていました。「一歳の子牛」は、全焼のいけにえの規定(レビ記1章)の中でも最高のものでした。質問者の一人は、まず、そんな彼らの常識から、神殿に最良の献げものを持って行くべきかと尋ねます。質問には祭儀の種類も含んでいました。「全焼のいけにえ」とは、いけにえの全部が焼かれるために、献げる人の神さまへの全面的献身が強調され、神殿儀式の中心を為していたと考えられます。彼は、ミカが何度もイスラエル指導者たちの罪を告発したことに対し、鈍いけれども反応を示したということでしょうか。その反応が、現代にもあったらと願います。現代は神さまに対して、全く無反応かも知れないと思うからです。


U 信仰の方向を

 「主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか」(7)も、同様の考えに基づく質問でしょう。それは、質問者たちが、相当な金持ちであったことを示しています。大量のささげものをしたところで、ほとんど痛みを伴わない、それほどの物を所有していた彼らが、このような発想をしています。そう考えますと、貧しい人たちの懸命に用意した鳩のひなという最低のささげものが、どれほど心がこもったものか、改めて考えさせられます。生まれたばかりのイエスさまを連れてマリヤとヨセフは、山ばとか家ばと一つがいを神殿にささげましたが、そこに、彼らの感謝と喜びが伝わって来ます。レプタ二枚(最小単位の貨幣)を献げた貧しいやもめを見て、イエスさまが「彼女は誰よりも多く献げた」(マルコ12:41−)と言われたことも忘れてはなりません。イスラエル指導者たちは、罪を指摘されてなお、その反応が非常に鈍く、しかしここで、彼らのミカへの質問を、そのような神さまへの立ち方を、「それでいいのだろうか」という素朴な疑問であるとしたら、ミカは彼らの信仰を聞いたのでしょうか。この書に散りばめられている希望のメッセージ、とりわけ5:2にある「ベツレヘムにイエスさまがお生まれになる」との預言は、そのような彼らへのあわれみと感じられます。

 ところが、質問者の中には、はっきりといけにえの規定で禁止された(レビ記18:21)子どもの犠牲を口にする者がいます。「私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか」(7) これは、カナン人が行なっていたバアル礼拝の影響なのでしょう。複数の質問者はきっと、神さまとの関係を修復したいと願っていました。特定の預言者たちをサポートし、自分たちのためにメッセージを語らせていたのも、そんな彼らの願いからだったのかも知れません。結果として、口当たりの良いメッセージだけを好むようになってしまったのですが、そんな思いが、もっと神さまについて熱心にならなければいけないという気持ちに傾いているようです。しかし、祭壇に子どもを献げるなど、いかにも狂信的ではありませんか。熱心の方向が問題なのです。しかも、それを律法が禁じていると思い出しもしないのは、彼らがどんなに神さまのみことばから離れていたかを示すものでしょう。


V へりくだって主とともに

 これらの質問に、ミカが答えます。「主はあなたがたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたがたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」(8) 先週、公義とは正義(新共同訳)であると聞きました。それは神さまの正義であって、「あなたがたはその正義を行なっていない。貧しい人からはぎ取り、彼らの肉を食らって肥え太っているのである。それを痛みもせずに、大量のいけにえを持って神殿に上って行っても、神さまの前に出たことにはなるまい」とミカのメッセージが伝わって来ます。現代の私たちも、人の痛みを感じないほど心が鈍くなって、金持ちや名誉、地位のある人ほど他人を踏みつけにしています。神さまがあなたの生き方を見つめていることを、忘れてはなりません。「誠実を愛し」とあるそれは、貧しく弱い人たち、苦しむ人や慰めを求める人たちに、何よりも、神さまと自分の内面に向かって、あなたの心を傾けることではないでしょうか。その時、欲望やさげすみがそこに同居できないのは当然でしょう。イエスさまを信じる信仰は、自分より隣人を優先するよう教えています。「へりくだって神とともに歩む」ことが、神さまから遠く離れた生活を一転させることだと聞いていきたいのです。そのような歩みは、本当に謙遜で愛ある人に私たちを育てていくでしょう。<神さまが見ておられるところで生きよ>と、ミカのメッセージが聞こえて来るようです。

 この後ミカは、7章半ばまで再びイスラエルの罪を数えたて、彼らへの裁きを宣言します。その厳しさは1−3章を上回るほどですが、しかし、そんな彼らへの悔い改めの最後の機会として、ここにこの対話を挟んだと想像するのです。ミカの意識の中で、彼らも神さまの民であることは間違いないでしょう。彼らがその在り方を悔い改め、神さまの民として立つように願う姿を感じます。しかし、農民から出たこの預言者は、最後まで民衆の一人として、その痛みを負い続け、彼らと共に歩もうとしていたのでしょう。民衆を食い物にする指導者たちとの対決は、預言者ミカの根本的姿勢と感じられます。貧しい者、弱い者とともに歩み、その痛みを担おうとする彼の姿は、イエスさまに重なって、神さまの器のあるべき姿と教えられます。

 ミカ書の最後は彼の祈りです。指導者階級に対して厳しい対決姿勢を見せたミカですが、実は、滅びを宣言された彼らを惜しみ、悲しみの中から、神さまに向かって両手を上げています。彼のへりくだりと優しさが溢れた姿、「神さまの前に真にへりくだって欲しい」と願うメッセージが聞こえて来ます。「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者だと思いなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、実に十字架の死にまでも従われたのです」(ピリピ2:3−8)とあるように、イエスさまの十字架のへりくだりに倣う者となっていきたいと願います。