預言者の系譜
31  ミカ(3)
信仰の戦いを

ミカ書  3:5−8
Tテモテ 6:11−14
T 世の風潮に抗して

 先週、ミカが南ユダ王国の地主たちの罪を告発した2章を見ました。それは、部族の長たちや預言者たち、王たちなど、3章に言われる他の指導者たちにも当てはまることでしょう。3章は、ミカが地主や指導者たちを告発したことで訴えられ、法廷に引き出されて弁論したものの一部であろうと言われますが、今朝はその中から、預言者たちについて語る5−8節を見たいと思います。

 2:11節で、多分、地主たちがお金で買収したであろう預言者のことが取り上げられました。「だれかが歩き回って、空しい偽りを語り『ぶどう酒と濃い酒を飲みながら、お前にとくと預言を聞かせよう』と言えば、その者は、この民にたわごとを言う者とされる」 <ぶどう酒を飲みながら>とは、彼らが雇い主と一緒に宴会の席についていることを言っているのでしょうか。そのような偽りの預言者に対するミカのメッセージが、この3:5−8に語られているのです。「預言者たちについて、主はこう仰せられる。彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、『平和があるように』と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する」(3:5) <歯でかむ物があれば><彼らの口に何も与えない>とは<ぶどう酒を飲みながら>と同じで、自分たちのふところを潤してくれる者には口当たりの良いメッセージを語り、何もくれない貧乏人や彼らに反感を示す者たちには「災いがやって来るぞ」と脅かしていたと言うのです。<預言者たち>と複数になっていますが、恐らく、そのような世渡りを目的とする預言者集団を指しているのでしょう。彼らは、一部の指導者たちのお抱えのようになって、たいこもちを務めていました。その数がどれくらいあったか分かりませんが、彼らが臆面もなくそんな道化を演じていたのは、周りにも同様の者たちがたくさんいて、良心が麻痺していたのでしょう。そして、そんな人たちがまともな預言者集団より多く、増えつつあったのではないでしょうか。それが時代の風潮だったのでしょう。教会が権力の手先になってしまった数多くの歴史と重なって来ます。ミカは彼らのメッセージを聞き、彼らもまた、エルサレムの法廷で語り始めたミカのメッセージを聞いて反発しています。そんな彼らに向かっての宣戦布告。これがここのメッセージではなかったかと思われますが、現代の私たちの教会に重ならないようにと願います。


U 十字架のことばに

 「それゆえ、夜になっても、あなたがたには幻がなく、暗やみになっても、あなたがたには占いがない。太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。先見者たちは恥を見、占い師たちははずかしめを受ける。彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ」(6−7) これは、ミカの、欺瞞に満ちた預言者たちに対する厳しい断罪宣告です。それは、彼らがどんなに求めても神さまからの幻や占い(新共同訳・託宣)は決して与えられず、<太陽が彼らの上に沈み、昼も夜も彼らの上で暗くなる>とは、彼らがもはや預言者として働くことが出来なくなるということなのでしょう。神さまのことばを取り次ぐ預言者が、神さまのことばを見失っては、もう、その存在価値はないでしょう。現代の教会も、真にイエスさまの十字架に贖われているか、贖い主イエスさまがいらっしゃるかどうかが問われています。イエス・キリストの教会は、十字架のことばに立ち続けていくものであり、私自身、そのところにしっかりと立ち続けたいと願います。

 幻や占いなど、預言者たちが神さまからのメッセージを受ける形態を言ったものでしょうか。預言者たちが、一種の恍惚状態になって神さまからのメッセージを聞く記事は、旧約聖書の各所に出ています。幻や託宣を伴うそのような現象は、残念ながら私たちの理解を超えますが、神さまの意志がどのような形態を通って来たかが預言の中心ではなく、彼らが聞いた神さまのことばが、私たちに何を語りかけているのかが問わるものでしょう。とは言え、ここで、何らかの神秘的経験であったと思われる幻のことを取り上げておきたいと思います。アモス書にこうあります。「『アモス。何を見ているのか』私が『一かごの夏のくだものです』と言うと、主は私に仰せられた。『イスラエルに終わりが来た。わたしは二度と彼らを見過ごさない』」(8:2) 彼は、腐りかかった一かごの夏の果物を見た時に、それがイスラエルの腐敗を象徴するものであると、神さまからメッセージを聞きました。それは幻覚のたぐいではなく、神さまのことばを視覚的に聞いたということなのでしょう。今、預言者たちは、夜を徹して熱心に幻を求め、占いを行なって、さも神さまからのメッセージがあったかのようなそぶりを見せていました。しかし、それは単なるうわべだけであって、彼らには神さまからの答えがありません。終末の時代を迎えて、彼らのような者たちが出ていないと言えるでしょうか。気をつけたいものです。


V 信仰の戦いを

 ミカは、雇い主の気に入るメッセージを語る預言者たちを偽物と断罪しながら、神さまからのメッセージを託された預言者の何が本物かを論じ、これは、エルサレムの法廷で彼ら偽預言者たちを前に、自分が神さまから召し出された本物の預言者であると弁証したものでしょう。「しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、ヤコブにはそのそむきの罪を、イスラエルにはその罪を告げよう」(8)  ミカはイスラエルに罪あることを伝えるために神さまから召し出されたことを明らかにしました。それは、ミカがこの時代に、召し出された預言者の系譜に属していることを示すものです。ヤコブとイスラエル、同じ南王国を繰り返すことで、強調して言ったものと思われます。当時の預言者たちは、イザヤも、ホセアやアモスも、ミカとほぼ同じメッセージを語っています。それは、語ることで彼らに何ら利益をもたらすことはありませんでした。むしろホセアは、自分の収入をつぎ込みながら、神さまのメッセージを語り続けたと言えましょう。アモスもミカも同様です。出来上がった大きな教会に就職したかのようなサラリーマン牧師が増えている現代、彼らの孤高な姿勢に、学ばなければならないものが多くあるのではないでしょうか。

 最後に、ミカの、自分は神さまによって召し出された預言者であると言う、その根拠に触れたいと思います。「力と、公義と、主の霊と、勇気とに満ち」ていると主張してやまないところです。これは「わたしは、主のみたまによって力に満ち、公義と勇気に満たされ」とある口語訳が理解を助けてくれましょう。何よりもミカは、神さまの聖霊に満たされていたのです。そして、主の力、主の公義(正義)、主の勇気に満たされてミカは、世の権力者に戦いを挑んでいきました。この記事は、使徒時代の弟子たちを思い出させてくれます。彼らが初代の教会を建て上げていったのは、何よりも聖霊の働きによるものでした。そして、その聖霊は、イエスさまがもう一度おいでになる時まで、私たちの助け主として、私たちのすぐ側にいてくださると、主ご自身の約束です。その約束があるからこそ、こんなにも弱く頼りない私たちが、主の力と主の公義をまとい、勇気を出してこの世の罪を告発しつつ、そこに十字架の救いがそびえ立っていると語り伝えることが出来るのです。そのように、2000年の歴史を信仰の先輩たちは、現代の私たちにまでイエスさまを信じる信仰を継承して来たと忘れてはなりません。恐らく、世の中にも教会にも、もっともっと不条理なことが膨らんでいくでしょう。その中で私たちも、同じ霊に満たされつつ、「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得」(Tテモテ6:12)する者となっていきたいと願います。「あなたは、このために召され」(同)たのですから。