預言者の系譜
27  ホセア(4)
愛を勝ち取られたお方に

ホセア書 11:1−11
マタイ  2:13−15
T 食べることも飲むことも愛のうちに

 ホセアのメッセージということから見ますと、全体の14章中、4〜11章という長い部分が一つのまとまりになっていて、これがホセア書の中心なのでしょう。11:12はヘブル語聖書では12:1です。11節に加えられている「主の御告げ」ということばが、ここを締めくくっているようです。この部分を、前回は6章の一部しか見ませんでしたが、4章の最初に「イスラエル人よ。主のことばを聞け。主はこの地に住む者と言い争われる。この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。ただ、のろいと欺きと人殺しと、盗みと姦通がはびこり、流血に流血が続いている。それゆえ、ここに住む者はみな野の獣、空の鳥とともに打ちしおれ、海の魚さえも絶え果てる」(1−3)と象徴されているように、これはイスラエルに対する神さまの怒りの吹き出たメッセージと言えましょう。しかし、この厳しいメッセージも10章までです。厳しいメッセージのあとに、イスラエルがそれを聞いて悔い改め、神さまに立ち戻ることを期待したのでしょうか。11章には再びホセアの優しい人柄がにじみ出ているようで、神さまの彼らへのあわれみのメッセージを、彼自身が耳を澄ませて聞き取ったのでしょう。

 「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。それなのに彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた」(1−2)と始まります。エジプトを出てカナンに定着したころのことを、彼らに思い出させているのでしょう。それは神さまの愛に導かれてのことでした。「愛した」とあることばに注目したいのですが、3:1に「ぶどう菓子を愛している」とあることばと同じで、飲み食いなどの好みに使われる極めて「実践的な愛」と考えて良いでしょう。ご自分の最も深い愛を注がれ、生活の隅々に渡って支えになり、必要をことごとく満たし……、そんな愛を神さまは実践なさったのです。彼らは、カナンに定着するまでの長い年月を、神さまに愛され、養われてきたことを思い出さなければならなかったのです。

 私たちクリスチャンが愛と聞くとき、イエスさまの十字架に見られる自分を犠牲にしてという愛を強調するあまり、時として実践的なところを軽んじる傾向があるかも知れません。しかし、愛すると言うとき、持っている物を無条件に差し出す愛を加えていくことも学んでいいでしょう。それもまた愛の本質的部分であろうと教えられます。


U 神さまの愛を忘れて

 神さまに愛され、選びの民であるということを、荒野での放浪生活やカナン定住の苦労の中で、彼らは神さまに支えられ、導かれながら学んできました。しかし、カナンに落ち着くと、あっさりそれらを忘れ、カナンの神々に走ってしまいます。優れた農耕文化を有するカナンの諸民族に学びたいという気持ちも分からないではありませんが、それがカナンの神々を受け入れるところまで走ってしまうと、神さまの彼らへの愛は一体何だったのかと、考えざるを得ません。彼らを支えて来られた神さまとともに歩むこと、それこそイスラエルの最も大切な点だったのです。「呼べば呼ぶほど」とありますが、その彼らに、エリヤから数えて既に100年以上を、エリシャ、アモス、そして他多くの預言者たちが、神さまを指し示して来ました。しかし、「神さまを求めよ」と言われるとそれを、「さあ主に立ち返ろう」(6:1−3)と信仰告白を儀礼的な歌に置き換えて、それほどまでに、彼らは神さまから遠く離れていたのです。

 「わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた。しかし彼らは、わたしがいやしたのを知らなかった」(3)とあるのは、そのことの繰り返しでしょう。「いやし」はエジプトからの解放、つまり、預言者が何度も繰り返さなければならないほど、彼らは、自分たちに注がれた「父」の愛を忘れてしまっていたのです。ここで、「忘れる」ことに注目したいのですが、人のした悪いことに対してなら、それは「赦し」となりますが、人の善意や好意を忘れ、自分の悪いことを忘れるということは、罪の本質に触れる問題点です。そしてこれは、現代に至るまで、私たちを含めたすべての人間に当てはまることでしょう。私たちはそのように自分を甘やかして神さまから遠ざかって来ました。それが罪なのです。「わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせた」(4)とあり、それは私たちについて言われたことであると受け止めなければなりません。イスラエルはそれを示す一つの型なのです。


V 愛を勝ち取られたお方に

 5節に「エジプトの地には帰らない」とあるのは、軍事同盟を結んで、エジプトの庇護のもとにアッシリヤの脅威を逃れようとする、イスラエルの計画が水泡に帰することを言っているのでしょう。「彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ」とその背信の罪を責め立てていますが、それは1−4節の言い方を逆にしたものです。そのような彼らであっても、「わたしはどうして、あなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうして、あなたを見捨てることができようか。……」(8)と、エジプトから導き出した「父」の愛を、依然、忘れたわけではないと神さまは宣言しておられます。「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」とあります。ここに、私たちのために救い主イエスさまを十字架におつけになった、神さまの愛の原点を見る思いがするのです。

 「わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない」(9)と神さまはご自分の決意をもう一度繰り返されます。<再び>とは、エフライム(北王国を指す)が二度目の破滅に遭うことではないと、すでに決定された滅亡が撤回されたと見て良いでしょう。<わたしは神。あなたがたのうちにいる聖なる者>と言われます。神さまの聖とは神さまが絶対他者であることを示すものですが、まさに<わたしは神>なのです。その神さまの聖を汚してしまったイスラエルを、もう一度その聖なる者に引き戻そうとしておられる。これが赦しと愛の決意でなくて何でしょうか。<わたしは神>と断固主張してやまない気迫に満ちた宣言は、神さまの愛も裁きも、人と交わした約束ではなく、神さまご自身の中で決定したことであって、イスラエルの背信にもかかわらず、神さまの中で怒りとあわれみが戦い、その葛藤を経てあわれみが打ち勝ったということなのでしょう。

 私たち人間にとって、神さまは余りにもかけ離れた存在で、つい神さまには感情の起伏がないように感じてしまいますが、むしろ、私たちの愛、怒り、喜び、葛藤さえも、神さまのご性質を頂いたもので、神さまの内面に愛する余りの葛藤があってもおかしくはないでしょう。預言者ホセアはそれを、神さまの内面深くにあるメッセージとして聞き取ったと思われるのです。

 10−11節には、彼らの回復が語られています。まだその回復が実現してはいませんが、それは終末のことなのでしょうか。イスラエルの希望も、生きることも、その存在すら、ただ神さまの愛にかかっており、神さまはその愛を貫き通そうとしておられるのですが、それはホセア自身も分からないことでした。しかし、マタイは彼のことばをイエスさまに当てはめ(11:1→マタイ2:15)て、ここに、イエスさまの十字架の愛に贖われた者たちのことが語られていると考えて良いでしょう。そんな神さまのメッセージを聞き取ろうと、愛する妻を重ね合わせながら、神さまと格闘した預言者ホセアの信仰を好きになって頂ければと願います。