預言者の系譜
26  ホセア(3)
愛も痛みも

ホセア書 6:1−6
エペソ書 5:2
T 公式的な告白ではなくて

 卓上用に、使い込んでぼろぼろになった革装の新改訳聖書が置いてあります。ごちゃごちゃといろいろな書き込みがあり、至る所にラインが引いてありますが、「あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ」(6:4)に赤線が引いてありました。以前、家内がここに出会って、教えてくれたところです。

 ホセアの3回目ですが、<誠実>ということばが、新改訳聖書で別の訳になっているものも入れて(2:19は恵み、13:14ではあわれみ)全体で6回(4:1の「誠実」は、ここだけが原語で別のことばになっている)用いられていて、6章にそれが2回出て来ます。これがホセアの、少なくとも6章の中心メッセージと思われます。今朝は6:4、<誠実・ケセド>ということばに焦点を合わせながら、預言者の信仰と他いくつかのことを考えてみたいと思います。

 6節に「わたしは……全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ」とあります。1〜3節を素直に読むなら、全焼のいけにえを献げながら誓いを立てているイスラエルの姿が浮かび上がって来ます。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は、二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは御前に生きるのだ。私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される」 ところが、イエスさまよみがえりの預言かとも思われる「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる」とあるこんな大切なところを、新約聖書のどこにも、旧約からの証言として引用している箇所はないのです。これは、5:15で「彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう」と、預言者のことばに反応したベテルの祭司たちの悔い改めの儀礼的文句と見て良いようです。「暁の光のように」「大雨のように」「後の雨のように」とは、カナンのバアル祭儀に関連あることばであると指摘されています。2節の「生き返らせ」も、「生命を保ってくださる」と訳すのがいいようです。

 ホセアが聞いた彼らの悔い改めは、預言者の心を打つものではありませんでした。そんな表面的・公式的な信仰が、現代の私たちの中にもじわじわと浸透しているのではないかと思われます。


U 今、問われていることは

 ホセアが語った「あなたがたの誠実は朝もやのようだ」という神さまのことばは、今述べた背景の中で聞いてゆかなければならないのです。ここの「誠実」は口語訳では「愛」となっており、ケセドというヘブル語にはその方がふさわしいようです。本来、親切心とか他人をあわれむ心という意味ですが、人間同士の愛と考えますと、「朝もやのような愛」は、「靴一足のために貧しい者を奴隷に売る」と指摘されたイスラエルの状態が更にひどくなっていると気づいて頂けるでしょう。アモス書で彼らイスラエルの罪が、人間的な「貧しい者たちを食い物にしている」ところから、神さまの最も聖なる部分を犯すところへと、段階的により重いものになっていると受け止めましたが、ホセアのここでは、次元の低いところから高いところへと預言者の関心が移っているのではなく、むしろ、人間的な「貧しい者への配慮に欠ける」ことも、神さまの聖なる部分をないがしろにすることも、じつは同列の罪だと指摘されているようです。信仰とは、私たちの隣人への愛が問われることなのです。

 ここで注意して頂きたいのですが、隣人愛、それは、ヒューマニズムの愛ではありません。神さまは私だけの神ではなく、あの人この人の神さまであり、そのお一人お一人が罪に滅びることを望まず、イエスさまの十字架の救いに出会って欲しいと願っておられるのです。そこには民族や宗教など関係ありません。イスラエルは実は、そのような人たちへの祭司の国、祈りの国として立てられていましたが、彼らはそれを忘れ、自分たちだけが選びの民であると、その誇りにだけ生きてきました。それが今、「罪」であると問われているのに、まだポーズだけの信仰を振りかざしています。6:7以下はそのことを語っています。ここまで読んで、現代の教会、私たち自身がそのような立ち方に重なっていないかと心配になりました。神さまのことば自身が語る愛に生きることだけを聞くべきであると、胆に命じたいものです。


V 愛も痛みも

 「あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ」とイスラエルの信仰状態が、私たちのそれも重ね合わせて……、叱責されていると聞きました。ここで、このような言い方をしたホセアの心の奥深くにあるもう一つを探ってみたいのです。

 ここに言われる「誠実」は「愛」のことであると触れました。ホセアはこれを妻ゴメルに重ね合わせています。これは神さまからイスラエルへの叱責でしたが、ホセアも同じようにゴメルに「あなたの愛は朝もやのようだ。誠実ではない」と叱っているのでしょうか。ホセアは、神さまから「行って、姦淫の女をめとれ」と言われて彼女に出会ったのですが、それがイスラエルへのメッセージだったから、結婚を形だけ整えたのかというと、そうではない彼の愛の苦悩が現われていると、3章などから感じられます。2:20に「わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ」とあります。この真実は、自分を焼き尽くすまで心を傾けていく熱い思いのことで、ホセアは、神殿娼婦だったゴメルを妻に迎えた外聞の悪さなど全く気にせず、彼女を愛し、3人の子どもを設けましたが、幸せな家庭を提供したホセアを裏切り、ベテルのバアル神殿娼婦に戻ってしまう彼女を、誠実をもって買い戻す彼の愛の情熱が伝わって来ます。

 そんな彼が、イスラエルに重ね合わせているからとは言え、「あなたには誠実がない」と彼女を叱っているとは考えられません。ここに、ゴメルとの10数年に及ぶ生活が生々しく重なって聞こえて来ます。その始まりが、3章の「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私もあなたにそうしよう」(3:3)という、彼女との2人3脚の宣言でした。自分の分身と感じられるほどになっていた彼女が、バアルへの盲信を捨て切れないでいる。「朝もやのような」愛・誠実の在り方を、彼は自分自身の問題として告白したのではないでしょうか。「私もあなたにそうしよう」と言った彼の感性の鋭さに、その思いを感じるのです。ホセアは、ゴメルをメッセージの道具に使うのではなく、痛みも愛も本物になっていくことを願い、いや、そんな意識すらなく、ひたすら、彼女を愛する愛の足りなさを感じていたのではないでしょうか。ホセアとともに、自分の愛の足りなさを思いつつ、十字架に罪を赦してくださったイエスさまの愛(エペソ5:2)に包まれていきたいと願います。