預言者の系譜
24  ホセア(1)
新しい名をもって

ホセア書 1:1−11
ロマ書 9:6−8,23−26
T 預言者の痛みとともに

 預言者の系譜4人目に、小預言書の最初の書物・ホセア書の著者ホセアを取り上げていきたいと思います。彼も北王国へ神さまのメッセージを語った預言者です。

 1:1に「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば」とあるように、彼は、アモスが預言活動を終えたヤロブアム2世末期の時代に、預言者として召し出され、北王国がアッシリヤにより滅亡する頃まで活動したようです。ここに南王国の4人の王たちの名前が挙げられていることから、そのメッセージは北王国だけを視野に入れたものではなく、彼の意識の中に、南と北の何らかの結合があったのではないかと思われます。ちなみに、その活動時期を特定している箇所で、「ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ」とある年代は、正確ではありませんが、BC760−715年頃であり、それは北王国ヤラベアム2世末期から無政府時代と呼ばれる動乱の時代を経て、最後のホセア王を見届けるまでです。その動乱の時代を彼は、指摘される北王国の痛みを、他人事のように眺めた冷たいメッセージではなく、彼自身の家庭生活の痛みに重ね合わせて、それが彼のメッセージとなっていくのです。彼についてあまり多くのことは知られていませんが、自らの痛みと感じるほどに北王国の行く末を案ずるそれは、彼が北王国南端に近いエフライム出身だったからでしょうか。北王国をたびたび「エフライム」と呼び(4:17以下)、そこから北王国のバアル礼拝の聖地ベテルは目と鼻の先なのです。

 小預言書は極めて難解と感じられていますが、この書には人々を魅了する宝石のようなキラキラとしたことばがいくつも散りばめられています。今回は、その時代・背景ということより、私自身が心に刻みつけられた、彼のことばを中心に取り上げてみたいと思います。


U 贖い

 1章2節です。この書の発端であり、家庭生活と北王国の問題が重なって彼の痛みとなった中心の出来事です。「主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。『行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。』そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった」とあります。この結婚は、彼の身に実際に起こったことであり、プライベートな、愛する妻の、本来なら公表してはならない部分を、3人の子どもが誕生していく長い時間を凝縮してイスラエルに重ね合わせ、こともあろうに、それを彼のメッセージの最も重大なこととして語らなければならなかったのです。そんな彼の、預言者としての苦悩と悲しみ、愛のぎっしりつまったメッセージを聞いていくことができればと願います。

 彼の妻ゴメルについてですが、少し説明を要します。これまで何度もイスラエルのカナン化に触れてきましたが、カナンの文明を取り入れるカナン化には、その文明のシンボルとも言える彼らの宗教・バアル礼拝がついて来ます。古代宗教に珍しいことではありませんが、バアル祭儀にも巫女を通してバアル神の恵みに預かるという信仰があり、女性たちが神殿所属の巫女=遊女として存在していたようです。ゴメルはそんな、恐らく、バアルのものという印を顔につけていた女性だったと思われます。結婚したいからと、ホセアがバアルの祭司にゴメル引き取りを申し出たときのことを想像してみたいのですが、恐らく、お金を払って彼女を贖ったのでしょう(参考3:2)。ゴメルを指定した理由までは分かりませんが、バアルの祭司たちにすれば、これは引き抜きであり、稼ぎ手の若い女性や、その内情を外部に漏らす恐れのある女性を手放すことはなかった筈です。するとゴメルは高齢で、バアル神殿の巫女として役に立たなくなっていた女性か、それとも若くてバアル信仰に洗脳され、内情が外に漏れる心配のない女性だったのか、どちらもゴメルに当てはまるものと思われます。ゴメルという名前から、彼女がイスラエル人か外国人かは不明ですが、貧しさのために売られてそんな境遇に陥った、不幸な生い立ちだったのでしょう。そのためでしょうか、彼女は、幸せを持続していくすべを知らないようです。結婚後、彼女はホセアを裏切って他の男のところに走りますが、神さまは再度ホセアに、彼女を引き戻し、愛するように言われ、彼は多額のお金を支払って彼女を引き取ります(3章)。そして、神さまとホセアは、イスラエルの罪ある状態に重ね合わせるように、そんな彼女を愛し続けるのです。


V 新しい名をもって

 「姦淫の子ら」とありますが、これをゴメルの連れ子と考える必要はないでしょう。ホセアとの間に生まれる3人の子どもたちを指していると思われます。「その子をイズレエルと名づけよ。わたしはイズレエルの血をエフーの家に報い、イスラエルの家の王国を取り除く」(4)「その子をロ・ルハマと名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ」(6)「その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ」(9)とあり、子どもたちは神さまのイスラエルに対する裁きのシンボルでした。9節を考えてみたいのですが、「わたしはあなたがたの神ではないからだ」とあります。これは「『わたしはある』という者である」という出エジプト3:14の神さまの存在を主張することばを否定し、「わたしはあなたがたに対して『わたしはある』ではなくなる」という言い方です。つまり、神さまと結んだ契約が解除され、「自分たちは神さまの選びの民である」と誇るイスラエルの在り方が、根底から崩されてしまうという宣言なのです。

 繰り返しますが、北王国への神さまの裁きは既に決定したものであると、預言者アモスのメッセージから受け止めてきました。ところが、アモス以後にもホセアのような預言者が出て、なおもイスラエルへの裁きが宣言されます。そこから、決定したと言いながら、神さまは、イスラエルが変わることを望んでおられたのではないかと感じるのです。ところが、「『わたしはある』ではなくなる」と神さまとの契約が解除され、ここに北イスラエル王国滅亡への最終判決が確立したというのでしょうか。ホセアが担った神さまのことばの重さを感じます。現代にも、教会から語られるメッセージは、それほどの重さを秘めていると、そのようなメッセージを語り、聞いていきたいものです。

 ところが、そんな最終判決に、まるで刑務所に入って翌日に恩赦されたような預言者のことばがあります。「イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも、数えることもできなくなる。彼らは『あなたがたはわたしの民ではない』と言われた所で、『あなたがたは生ける神の子らだ』と言われるようになる」(10) 神さまの審判のもとに滅亡し、死に絶えた筈のイスラエルが、「生ける神の子」という新しい名のもとによみがえるのです。彼が愛した妻ゴメルと同様に、彼らイスラエルは神さまに愛され続けていると、これが預言者ホセアの中心メッセージなのでしょう。ホセアは終末の情景を見ていて、そこにはもはや北も南もないのです。「ユダの人々とイスラエルの人々は一つに集められ、彼らはひとりのかしらを建てて、国々から上って来る」(11)は、彼が夢見た新しいイスラエル誕生の情景でしょう。ここで私たちが、「ひとりのかしら」の中にイエスさまを見るのは行き過ぎでしょうか。罪に死んで当然の私たちが、十字架に贖われ、恵みに生かされる約束がここに語られていると思われてなりません。「神は、私たちを異邦人の中からも召してくださった」(ロマ9:24)と、神さまの約束の恵みを再確認したいのです。