預言者の系譜
23  アモス(5・最終回)
主の残りの民として

アモス書 9:7−15
使徒 15:13−18
T 主を信じる信仰のレベルの高さを

 預言者アモスの最終回です。これまでのメッセージをもう一度読み直してみました。アモスは神さまのことばのために召され、その裁きの重さにおののきつつ、イスラエルが滅びることのないようにとの願いを強く意識していて、そんな彼が大好きになりました。北王国に遣わされ、イスラエルがアッシリヤ帝国侵略の餌食にされるとよくよく承知しながら、なお、そんなイスラエルにも希望が……、と模索しています。神さまことばを語りながら、アモスはモーセのように神さまの前に立ち、懸命にとりなしていたと、彼のメッセージ最後から、そんなアモスの溢れるような思いが伝わってきます。7−15節は二つの部分からなっていますが、どちらのメッセージからも聞いていきたいと思います。

 まず、7−10節からですが、「イスラエルの子ら。あなたがたは、わたしにとってクシュ人のようではないのか」(7)とあります。エジプトの古い言い方・クシュ、神さまに逆らう者たちのシンボルです。アモスは「主の御告げ。わたしはイスラエルをエジプトの国から、ペリシテ人をカフトルから、アラムをキルから連れ上ったではないか」(7)と言いますが、イスラエルは神さまによってエジプトから連れ出されたことを、「神さまの選びの民」としてその存続の誇りとして来ました。ところが連れ出されたのはイスラエルだけではなかったです。ペリシテ人も、アラム人も、神さまの手に動かされていたことを彼らは忘れていました。自分たちだけが神さまの選民であり、他民族はすべて異邦人であるとしながら、形式的なヤーヴェ礼拝に終始し、実体は、軽蔑している周辺カナン民族の神々を引き入れ、不道徳を行ない、貧しい人たちをしいたげていました。イスラエルの他民族を圧倒するレベルの高いモラルや平等性・公正な裁きの基準は、神さまを信じる信仰から生まれたものですが、もしその原則を欠くなら、彼らの存続理由は失われ、周辺の他民族と何ら変わらないものとなってしまうでしょう。そしてそれは、現代の私たちにも当てはまることではないでしょうか。


U 神さまのふるいにかけられて

 神さまが彼らイスラエルを裁こうとする理由も、そこにあります。「見よ。神である主の目が、罪を犯した王国に向けられている。わたしはこれを地の面から根絶やしにする」(8) この王国や続く「ヤコブの家」は北王国や南王国を特定するのではなく、全イスラエルを指しています。今、アモスは、恐らく南ユダ王国のどこかの町に移り住んでいます。7章でベテルの祭司アマジヤから「ユダに行け」と言われて北王国を退いたのでしょう。そこで彼は、北王国にばかりではなく、全イスラエルに向けてメッセージを語り始めます。

 その全イスラエルに、わずかではあるが、神さまの前に正しく立とうとする人たちがいるにちがいないと、アモスは望んでいました。それ故、彼の最後のメッセージは、「全く根絶やしにはしない」ことが中心の、今、神さまの裁きを聞かなければならない人たちへの、希望のメッセージとなるのです。9−10節です。「見よ。わたしは命じて、ふるいにかけるように、すべての国々の間でイスラエルの家々をふるい、一つの石ころも地に落とさない。わたしの民の中の罪人はみな、剣で死ぬ。彼らは『わざわいは私たちに近づかない。私たちまでは及ばない』と言っている」 <ふるい>、麦打ち場で脱穀した麦をふるいにかけて穀粒と麦わら、小石などとを選り分けていく様子を言います。そのように神さまの裁きのふるいにかけられ、イスラエル、神さまに義と認められた者たちが残されていくのです。「わざわいはやって来ない」と思い込んで勝手気まま、欲望のままに生きるなら、石ころや麦わらのように刎ねられてしまうと最後の警告をしつつ、アモスは「万軍の神、主は、もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない」(5:15)と、神さまの裁きを免れる<残りの者>の希望を語っているのです。<残りの者>という信仰は、やがて預言者たちの中心メッセージとなり、イエスさまを信じる新約時代のクリスチャンたちに適用されることになります。


V 主の残りの民として

 アモス最後のメッセージ、11−15節ですが、「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す」(11)と始まります。「ダビデの倒れている仮庵」はエルサレム神殿とも考えられますが、エズラ時代の第二神殿もヘロデが修復拡大した神殿もかつてのソロモンの神殿には及びません。「昔の日のように」といわれるそれは、ソロモンの神殿というより、むしろダビデ王朝そのもの指していると考えられます。ダビデ王朝の復興は、それを失ったイスラエルにとって、二千数百年の悲願でした。神殿もダビデ王朝も現代まで復興していないとユダヤ人は考えているのです。

 12節に「これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ」とあり、これを、エドムをはじめ、イスラエルに背いた国々が再びその支配下となることだと考える人たちがいますが、確かに、そのような政治的イスラエルの復興を夢見るユダヤ人は多いのです。しかし預言者は、ここでそんな夢を語っているのではありません。イスラエルのカナン支配が彼らの思い上がりを生み出し、ついには国を滅ぼしたことを、アモスはこんなふうに語りながら心に刻み込んでいるのです。「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す」(13) とあり、それはイスラエルの平和と繁栄の風景であり、アモスが繰り返し語った「主の日」・終末の時なのです。「わたしは、わたしの民イスラエルの捕らわれ人を帰らせる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう引き抜かれることはない。あなたの神、主は仰せられる」(14)とあります。イスラエルの支配というより、終末に焦点を合わせながら、もっと根本的な共存共栄の平和、繁栄、希望を語ったものと感じられます。

 しかし、この彼の最後のメッセージを、もっと具体的状況に当てはめながら聞いた人がいます。エルサレム教会最初の監督・イエスさまの兄弟ヤコブです。異邦人クリスチャンが誕生した時に、律法をどこまで守らせるかを主題に、最初の教会会議で彼は言います。「神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明した通りです。預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります」 そしてアモスのことばを引用しました。「この後、、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである」(使徒15−14−17) アモスが意識していたかどうか、しかし、イエスさまも神さまの時、終末の平和と希望の時なのです。そして、近づいて来た終末に向かって一層荒廃しつつあるこの現代社会に、イエスさまの救いにあづかった「主の残りの民」として、平和と希望があることを私たちも又伝えていかなければなりません。厳しい神さまの裁きを伝えるよう召されながら、神さまの優しさ・愛を見つめていった預言者・アモス、彼に習いつつ、神さまの愛や優しさを見つめる者でありたいと願います。