預言者の系譜
22  アモス(4)
主のことばを求めて

アモス書 8:4−14
マタイ 24:35
T 「わたしは忘れない」

 3章から8章までイスラエルの裁きが語られ、これがアモス書の中心であると指摘してきました。しかしここに、アモスの悲しみとは別の神さまの深い悲しみが感じられ、その「裁き」という問題にためらい、この扱いを少しでも先延ばしにしたいと考えていました。しかし、これがアモスの中心メッセージである以上、いつまでも避けることは出来ないと、今朝、この神さまの裁きを取り上げます。

 8:4−14ですが、この箇所は、新改訳では4−6、7−8、9−11、11−14と4つに区切られていますが、新共同訳では4−7、8、9−10、11−12、13−14と5つに区分され、訳は別に、こちらの方が説得力があると思われますので、その区分に従いたいと思います。まず4−7節ですが、「聞け」とアモスは彼らイスラエルの罪を鋭く指摘するところから始めます。特に商人たちは、金儲けを四週に一度の新月の祭りや安息日より大事にし、エパやシェケルの計量をごまかし、貧しい人たちをわずか一足の靴で奴隷にしています。3章でアモスは、社会的なことから、神さまの選びの民としての誇りを捨てた彼らの、神さまへの反逆までの罪を順々と告発しましたが、今ここに掲げるのはその一部です。彼は、ここに至るまで、あの手この手とそのような問題を繰り返し指摘し、それでも悔い改めようとしない彼らの頑固さに、「裁きもやむなし」とようやく心を定めたのでしょう。7節に「主はヤコブの誇りにかけて誓われる」とあります。<ヤコブの誇り>、それは彼らの変わらない頑なさへの皮肉でしょう。「わたしは彼らのしていることをみな、いつまでも、決して忘れない」(結びのかぎ括弧は新共同訳)とあります。<赦し>が「忘れる」ことであるとする聖書の意識からすると、「忘れない」とは、なんと強烈な神さまの断罪でしょうか。

 これは北王国や全イスラエルのことだけではない、時代を超えて信仰の動脈硬化に陥った者たちへの、もちろん現代の私たちをも含めて、厳しい警告と受け止められます。


U 裁きの宣告として

 8節のことばに注目したいのです。「このために地は震えないだろうか。地に住むすべの者は泣き悲しまないだろうか。地のすべてのものはナイル川のようにわき上がり、エジプト川のように、みなぎっては、また沈まないだろうか」 1:1に「地震の二年前」とあり、それはゼカリヤ書にも言及されている非常に大きな地震だったようですが、アモスはその地震を、恐らくまだ北王国に留まっている時に経験し、神さまの裁きはこのように起こると感じつつ、これを記したのでしょう。パレスチナは東西から地底プレートが押し寄せ、ヨルダン渓谷で地球内部に潜り込んでいます。死海が地中海面より600mも低いのはそのためですが、日本と同じ地震の多い土地柄です。恐らく、大地震のたびに、エジプトのナイル川のように、土地が隆起したり、沈下したりしていたのでしょう。これは9:5にも反復されており、そこには「万軍の神、主が地に触れると」とあります。アモスは、経験した大地震も神さまの手によるものであったと宣言し、そして、その大地震以上に、かつてないほどの天地がひっくり返る大災害が起こると、イスラエルの罪に対する警告をしています。阪神大震災を経験した方たちにはその怖さがお分かり頂けるでしょうが、そのような自然災害が、神さまの裁きの非常に重要な一面となる得ると知って頂きたいのです。

 続いて「その日」ということばが9節、11節、13節の3カ所に出て来ますが、これは「主の日はやみであって、光ではない」(5:20)とあるように、3−8章にある神さまの裁きの中心思想ですが、イスラエルをひな形とする人類、あらゆる国民、民族をも視野に入れた終末を語るものではないでしょうか。それはもはや警告ではなく、少しばかり科学文明が発達したからと言って、いのちの創造者である神さまを知らないと好き勝手な世界を造り上げた、現代の私たちへの宣告と聞かなければならないでしょう。

 その神さまの宣言、第一に9−10節ですが、地震のことに触れた8節を念頭に言われたものでしょう。地震ばかりではなく、「真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし」と言われます。イエスさまが十字架におかかりになる直前に、夜を徹して弟子たちに終末を語られました。その中に、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」(マタイ24:29)とありますが、同じことをアモスも語っているのです。繰り返しますが、これは、北王国への裁きに終わるものではなく、現代の私たちのことでもあるのです。


V 主のことばを求めて

 第二の「主の日」宣言は11−12節です。「見よ。その日が来る。神である主の御告げ。その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に乾くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて行き巡る。しかしこれを見いだせない」 近年、<主のことば>が教会においてすら真剣に求められなくなったと指摘されています。聖書信仰すら、自分たちの主張する信仰形態が正しいと擁護するための、断片的聖句引用に堕する傾向にあります。聖書は神さまの断片的なことばではなく、文脈を確かめながら読み、そのつながりの中で明らかにされるものでしょう。先輩たちから受け継いだそのような聖書信仰を守り抜いていきたいと思います。聖書のことばが力を失ったと言われる現代ですが、<主のことばを聞く>ことは、「主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」(申命記8:3)とあるように、イスラエルが神さまのことばによって生きてきた事実を前提にしているのです。私たちが生きるのも同じ原則によることを忘れてはなりません。ですから、「主のことばを聞くことのききん」とは、私たちの生かされている原則が取り払われることを意味します。神さまのことばは観念的なものではなく、現代においても力を持つのです。終末の時に人々は、その権威あることばを捜し求めて右往左往するでしょう。カルト宗教など得体の知れない怪しげな宗教がたくさん出回り、権威のことばを求めて多くの人たちがその門をくぐっていますが、しかし主のことばを見出すことが出来ないと、アモスは洞察しているのではないでしょうか。

 13−14節、「主の日」三つ目の箇所ですが、ここには同じように、現代の若い男女が如何に自分本位に生き、その生き方がどれほどむなしく崩れていくかが語られているとは思いませんか。「美しい」「若い」は現代人の拠り所であり、美しくもなく、若くもないのは人間に値しないという意識が増えています。「ダンよ。あなたの……、ベエル・シェバの道は……」とありますが、これは、イスラエル北端のダンも、ユダの南に位置するベエル・シェバも偶像礼拝の中心地であり、そこに彼らの<美しく><若い>刹那的、快楽的な生き方がありました。<ダンからベエル・シェバまで>、現代風に読むなら<ニューヨークから東京まで>でしょうか。そのような都会に憧れ、美しく、若く、そして刹那的でありたいと願う私たち現代人です。しかし、彼らは倒れて二度と起き上がることが出来ないと、預言者の宣告は厳しいのです。この宣告の前で生き続けることが出来る者は、誰もいないでしょう。しかし、「我が言は過ぎ往くことなし」(マタイ24:35)と言われたイエスさまのことば、すなわち、<私たちの罪のために身代わりとして十字架に死なれたイエスさまご自身>を信じ、罪赦された者だけが新しいいのちに預かることが出来るという約束を覚えて頂きたいと願うのです。