預言者の系譜
20  アモス(2)
主を求めて生きよ

アモス  5:1−17
コロサイ  3:1−3
T 預言者の哀歌が

 裕福な知識人だったと思われる羊飼い、いちじく桑の木を育てながら穏やかな日々を送っていたテコアの牧者アモスが、神さまのメッセージを語る預言者として召し出され、北イスラエル王国に遣わされて彼らの罪を告発しました。先週、2:6−16から、彼らの罪を告発するアモスの鋭いことばを聞きましたが、続く3−8章ではその滅亡が語られます。9章あるアモス書の3−8章と5つの章で彼らの滅亡が語られ、これがアモス書の中心なのでしょう。神さまの裁きはいづれ聞かなければなりませんが、それは、現代の私たちへの警告とも受け取れるメッセージであり、そこに神さまの深い悲しみを感じます。今朝は、そのイスラエルの背教を激しく非難する彼の口調の中に、静かな言い方で一縷の望みが語られている5:1−17から、その信仰の姿勢を聞いていきたいのです。

 「イスラエルの家よ。聞け。私があなたがたについて哀歌を唱えるこのことばを」(1)と始まり、5章はアモスの哀歌です。27節に「わたしはあなたがたをダマスコのかなたへ捕らえ移す」とあるように、アッシリヤによる北王国の滅亡を悲しむ預言者の哀歌です。BC760年頃、アッシリヤはひ弱なアッシュール・ダヤン3世の時代であり、怒濤のように北王国に侵入するティグラテ・ピレセル3世の時代までにはまだ40年あります。しかし、「おとめイスラエルは倒れて二度と起き上がれない」(2)と、預言者はアッシリヤの軍隊がサマリヤを破壊し、人々を捕虜にしていく様を神さまから知らされていたのでしょう。それでも彼は「もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない」(15)と、裁きを撤回される神さまのあわれみに一縷の望みを託します。神さまの裁きのメッセージを携えて北王国にやって来た預言者アモスですが、イスラエルが滅びることを望んではいなかったのです。


U 現代の私たちに重ね合わせながら

 イスラエル滅亡を何とかして避けたいと願うアモスの悲しみは、神さまご自身の悲しみでした。そのあわれみに縋るように、彼は主のことばを語ります。「まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。『わたしを求めて生きよ。ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰すからだ』」(4−5)ベテルもギルガルも4:4に言われることを背景にしていますが、「ベテルへ行け。ギルガルへ行け」とは、注解書によると、聖所へ巡礼に出ることを命じる祭司の言葉のようです。「そむけ。ますますそむけ」とは、そこが北王国の聖所であり、民族ぐるみでカナンのバアル神を礼拝し、それが神さまの怒りを引き起こしたと、痛烈な皮肉でしょう。ベエル・シェバはエルサレム南方の、やはり神聖なところと数えられて、北王国の人たちも巡礼に行っていたようです。アモスは「そこへ行って、神さまにますますそむけ」と皮肉りながら、「ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな」とその気持ちは神さまの思いに重なるのです。アッシリヤが侵攻する時、民族の聖所こそ中心地であるとして、そこが破壊され、そこの神々と目される像が彼らの国に移されることは明らかでした。

 彼は再び自分のことばでイスラエルへの勧告を語り始めます。
 もう一度「主を求めて生きよ」(6)と繰り返し、それこそ彼が伝えたかったメッセージの中心であると聞こえてきます。「さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている」と続け、頑ななイスラエルの姿勢になかば絶望しながら、それでも主を求めることに唯一の希望があると、血を吐くような預言者のメッセージです。公義とか正義という言葉が用いられているのは、彼の考えているイスラエルの問題が、彼自身そのような民衆の一人と言う意識からでしょうか、裁判の不正によって貧しい者たちが苦しんでいるというものでした。

 現代日本の世相は、感情だけで短絡的に犯罪に走ってしまう若者たち、理屈だけで物事を判断しようとする一部政治家、子どもがまとわりついてうるさいと……してしまう母親、自分の欲望だけで生きて……と、誰もが罪を罪と認識できないところに問題の本質が潜んでいるようです。それは、何よりも大切な神さまを忘れて、カナン化への道をひたすら走ったイスラエルの問題と重なってくるではありませんか。


V 主を求めて生きよ

 現代にも重なる北王国の罪の問題を、アモスは他人事のようになじったのではありません。「私は、あなたがたのそむきの罪がいかに多く、あなたがたの罪がいかに重いかを知っている。あなたがたは正しい者をきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける。それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る」(12)と語り、〈もし自分が賢かったなら、彼らの罪を告発することなく、ひたすら沈黙していよう。しかし、沈黙することは出来ないのだ〉と、預言者として神さまの側につき、彼らの罪を告発しなければならない自分を悲しみながら語っています。〈知っている〉とは〈体験している〉というイスラエル独特の内容を含む言葉ですが、彼も彼らと同じ環境に生き、その罪に陥る可能性がありました。北王国ほどではないにしても、南王国にもじわじわと同じ罪が進行していたからです。アモスはこの書の中で南王国への警告も語っています。

 それでもアモスは神さまから召し出された預言者でした。悲しみを押さえながら、彼らの将来を見据えて語り続けます。3−8章で北王国の滅亡を語り、その悲しみがこの真ん中の部分で哀歌となって溢れ出たのでしょう。「主を求めて生きよ」と彼は、中心メッセージを語りました。14節には、「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう」とあります。イスラエルの人たちはアッシリヤの脅威を感じ、「これまでに数え切れないほど私たちを助けてくださった万軍の主は、今もきっと私たちとともにおられる筈だ」と主張しますが、アモスは彼らのその主張を逆手に取って、しかしそれは、「神さまを求めるなら」という前提があってのことと語ります。アモスはそれを「悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきをせよ。万軍の神、主は、もしやヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない」(15)と訴え、その訴えは悲痛な叫びに聞こえます。

 昔、エジプト人のいのちを求めて家々の前を通って行かれた神さまが、今度はイスラエル人のいのちを求めて通り過ぎる(過越す)日が近づいています。「農夫を呼んで来て泣かせ」(16)とは葬式が多くて泣き女が足りず、農夫がその代わりを務めることを言います。それほどの神さまご介入の危機が、現代の私たちにも迫っています。歳になって殊更に感じるのですが、死が身近なものになりつつあります。しかし、私たちにはアモスが訴えた以上の希望があることを覚えたいですね。十字架の救い主イエスさまが間もなく私たちのところに来られると、「主を求めて生き」、「上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右に座を占めています」(コロサイ3:1)と叫んだパウロとともに、上を目指す者でありたいと願います。